・湊遥高1。既に恋人です


「兄ちゃん兄ちゃん、今日はなーに?」

スーパーの自動ドアをくぐるなり、くるりと振り向いて弟の優太が尋ねてくる。そうだなぁ、と湊はカゴをカートに乗せて考えこんだ。

「まだ決めてないけど、お前は何がいいんだ?」

「俺? んーとね」

ちょんと首を傾げて今夜のメニューを思案し始めた優太だが、入口を通り、果物コーナーに差しかかるなりイチゴの試食に飛びつく。幸いというべきか、そのコーナーには爪楊枝とイチゴのパックが置いてあるだけで店の人はいない。優太は三本の楊枝それぞれにイチゴを刺し、二本を湊へ突き出す。

「はい兄ちゃん」

「ありがと。はい遥」

リレーの如く楊枝を回され、遥は少し驚きつつも試食品を受け取って甘酸っぱいイチゴを味わった。


とある日の放課後。幼稚園に優太を迎えに行った後、夕食の買い出しのために三人はスーパーマーケットへ向かうことになった。近所の住民に長年親しまれている"ひよこスーパー"は湊より遥の家に近い。というわけで遥はいったん家に寄って学用品を置き、財布や携帯など最低限の持ち物だけを身につけて湊たちと合流した。


「クリームシチューがいいなー」

イチゴを食べ終えた優太が、玉ねぎの売り場にあったポップを眺めて呟く。店員の手作りらしいカードには、"今夜は玉ねぎたっぷり、ほかほかクリームシチュー!"の飾り文字と、シチュー鍋を囲む家族が描かれていた。

「だってシチューだったら、はるちゃんも好きだもんね?」

まぁ、と頷いてみて、遥は目を瞬かせる。何故優太は、今夜の食事についてを自分にまで尋ねたのだろう。それに応えるように、ネットにいくつか入った玉ねぎを手にして、優太は笑った。

「よかったぁ。じゃあ一緒に食べよーね」

「え……いや、それは」

やはり優太はそのことを前提に話を進めていたようだ。湊がゆっくりと押すカートに、優太は人参やじゃがいもをぽいぽいと投げ込んでいく。
自宅では既に、祖母が夕食を準備しているかもしれない。こうなることがわかっていれば荷物を置いた段階で言っておけたのだが、まさか買い物ついでに夕食まで一緒になるとは思ってもみなかった。
困っている遥を見てか、優太、と湊がようやく口を開く。

「遥のおばあさんが、もう遥のご飯を準備してるんじゃないか? 今日じゃなくてもいいだろ?」

きゅうりの浅漬けをもごもごと味わっていた優太は、ごくりと飲み込んで下を向いてしまう。純粋な子供が自分の返事のせいで泣きそうになっている様を見れば、さすがの遥も罪悪感を覚えずにはいられない。

「そっかぁ……そうだよね。ごめんね、はるちゃん」

「う……」

珍しく弱気な遥を目の端に捉え、湊は小さく笑う。優太は玉ねぎがあった場所の例のカードを指差した。

「いっつも兄ちゃんとふたりだから、あんなふうにみんなで食べたいの。お母さんもお父さんも、俺が寝る前に帰ってこないんだもん…」

優太はまだまだ子供だ。あのカードのように、家族の団欒を欲しがるのが当たり前だろう。寂しそうな瞳で訴えられ、遥はとうとう根負けした。

「ちょ……っと待て。聞いてくるから」

と言うと、自宅の番号を呼び出して携帯を耳にあてる。なぁに?と首を捻った優太に、湊は説明をしてやった。

「夕飯の支度がまだかどうか、おばあさんに訊いてみるって。でももしご飯が出来上がってたら、その時は諦めろよ」

数回のコールの後、桜井でございます、と綾子の声が聞こえる。遥が手短に事情を話すと、綾子は快く承諾してくれた。

『大丈夫よ、これから作るところだから。優太くんがそう言うんだもの、行ってあげなさいな』

「わかった」

電話を切り、許可を得たことを伝えると優太は喜んで抱きついてくる。そしてやる気をみなぎらせ、牛乳のコーナーに走っていった。そんな姿を目のあたりにすれば、遥もやっと安堵できる。

「遥、騙されるなよ。あいつ、俺よりずっと演技派なんだから」

湊は苦笑を浮かべつつ、カートを押して歩き始める。

「演技派?」

「そ。昔なんて、俺がピノ食べちゃった時に大泣きしたくせに、買ってくるって言ったとたんにケロッとしてさ」

聞けば、湊が中学になったばかりの時だったという。三歳くらいの年の頃なら気分の浮き沈みも激しいだろうと流し、遥は鶏肉のコーナーに足を運んだ。

「兄ちゃん、牛乳っ」

「おー、ご苦労」

湊は鶏むね肉をカゴに放り、優太が抱えてきた紙パックの牛乳も入れる。むね肉の値段シールを眺め、遥は売り場にあった別のむね肉を掴んだ。

「こっちのほうが安い」

「えっ」

湊は慌ててカゴの中のものと売り場のものを見比べるが、それでもカゴのほうを指差す。

「こっちじゃない?」

「そっちは百グラムあたり八十円だ。こっちが六十八円」

こっち、と遥が陳列されているほうを指す。んん?と湊はもう一度見比べようとしたが、優太があっさりカゴの中と遥が持っているものを入れ換えてしまった。

「ちょっ、まだ」

「はるちゃんのが絶対合ってるもん」

「お前計算できないだろ」

「はるちゃん算数得意だよ。兄ちゃんこの前、あかてんっていうの取っ」

すかさず優太の口を手で覆い、さて行くか、と湊は気まずそうに歩き出す。遥は呆れたようにひとつため息をついたが、それを見た湊が唇を尖らせた。

「遥だって、こないだ伝説的な間違いしただろー。舞姫の序文で人殺したくせに」

「な……っ」

まだ記憶に新しい、現代文の授業でのことがじわじわと頭に浮かんでくる。湊は笑いを隠しきれずにちょっと吹き出した。

「誰だっけ? 石炭をばはや積み果てつを、石炭をばばや積み果てつって読んだの。挙げ句に、"石炭をおばあさんが積んで死にました"って訳し」

「うるさい! ……優太、行くぞ」

羞恥にぷるぷると震えながら、遥は優太の手を取ってずんずんと歩き始める。ばいばーい、と優太が笑顔で湊に手を振った。

「ちょ、何それ! まだ会計してな」

「兄ちゃんやってきて。俺、はるちゃんとお茶飲んでくる」

スーパーの一角によくある休憩場所で、無料の茶を飲む気らしい。ぽつんとひとり残された湊は、しぶしぶカートを押してレジに向かった。

買った食材をマイバッグに詰めていると、遥と優太が紙コップを捨てて戻ってくる。

「俺、自分の荷物とこれ持ったら大変なんだけど」

遥はほとんどの荷物を自宅に置いてきたが、湊はそのままだ。高校の持ち物に加えて食材まで持つと少し重い。優太は幼稚園の黄色の鞄を肩にかけて尋ねた。

「兄ちゃん、はるちゃんに重いの持たせるの? そういうの、かいしょうなしって言うんだよ?」

「……持てばいいんだろ、俺が。甲斐性なしはちょっと違うけどな」

きらきらした瞳で何という侮辱をするんだと、半ばぐったりした様子で湊は弟を見つめ、重い手提げ袋をよいしょと持ち上げる。手伝おうかと口にはしないものの、それでも遥がちらちら見てくるので湊は笑ってみせた。

「大丈夫。遥に持たせるのは俺も嫌だしさ。早く帰ろっか」

優太はこれ見よがしに遥と手まで繋いでいる。自宅の冷凍庫にあるピノは必ず自分のものにしよう、と湊はこっそり決心した。


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