「先輩! こっちペン入れてません!」

「うっそぉぉ! くっ、仕方ないわ。だったらこっちの背景お願い」

「了解です!」

狭い部屋の中を忙しなく動き回り、佳奈子は後輩たちに指示を出す。六畳間は紙が散乱し、足の踏み場もない状態だ。
長い髪を頭のてっぺんで丸めた佳奈子はガリガリと愛用のペンを原稿に走らせ、壁の時計を見やる。約束の時間まではあと七時間少々。それまでに何とか原稿を完成させなければならない。

(ああもう、絵は描けなくていいから片づけしてくれる人いないかな……!)

現在佳奈子の部屋に集まっているのは漫画研究会に所属する同級生と後輩たち、合わせて四人。言わずもがな皆それなりに絵が描けるし、今は片づけ要員を割いている余裕などない。
しかし部屋がこんな状態では効率が悪いことこの上ない。トーンを探す時間さえ惜しいのだ。

「あ、すみません……」

きゅるる、と静かな部屋に落とされたのは空腹を訴える誰かの胃の音。その主である後輩は恥ずかしそうに謝り、また作業に戻った。

(そうだ、みんなお腹空いてるよね…)

ここ二日ほどは栄養補助食品で済ませていたため、まともな食事は誰も取っていない。近くのコンビニに出向くことはあっても、飲み物やレトルトを買ってしまいがちだった。そのおかげで疲労も溜まりやすくなっている。

「あいつを呼ぶしかないわね」

「え? かなちゃん、あいつってもしかして……」

佳奈子の言葉に、同級生がきらりと目を輝かせる。疲労を極めていた他の面々も、ぱっと顔色を変えた。

「そう、あいつよ」

佳奈子は不敵に笑うと、紙類に埋もれていた携帯を引っ張り出した。



「あー……手伝いってこれのことか」

部屋に入るなり胡乱な目をして見せ、湊はやれやれと肩を竦める。対照的に、漫研の女子たちはぱあっと顔をほころばせた。

「初めて見ました! 本物の小宮先輩!」

「え? 本物って?」

隈のできた顔で興奮気味に話す後輩に、湊が怪訝な表情を向ける。自分に偽物なんているのだろうか。

「だってほら」

佳奈子が散らばっていた紙の一枚を拾い上げ、ぴらりと湊に見せる。本物とあまり遜色ない姿が鉛筆で描かれていた。

「この子たちはこれしか見たことないから」

「なるほど。つーかあれなのな? やっぱり薄い本の類なのな?」

あはは、と部屋中からごまかしの笑いが漏れる。湊も何も言わずに苦笑してみせた。

「や、うん……まぁ、いいんだ。何となく予想はしてたし」

「何よ、感謝してほしいくらいね。あんたと遥ちゃんのあははうふふな絵描いてやってるんだから」

別に絵を描いてもらわなくても現実で十分満足しているのだが、佳奈子の妄想はまだまだ果てがないようだ。はいはいと湊は頷いて床の掃除を始めた。

「あー、本物の桜井先輩も見たかったですー」

遥の頬に斜線を入れながら、空想に浸っている後輩がうっとりと呟く。消しゴムのカスとトーンくずを手でかき集め、湊は何とはなしに口を開いた。

「もう寝ちゃったからなぁ……」

「えっ、どうしてわかるんですか?」

ペンを握る後輩の手に力がこもる。そりゃ寝るとこまで見てきたから、と言いかけて湊ははっとした。
佳奈子以外の女の子たちは、湊と遥が本物の恋人同士であるとは思っていないだろう。ましてや一緒に住んでいることを知られてはいろいろとまずい。噂が広まったり、この子たちが家に押しかけてくる可能性まで考えておかなければ。

「いつも早寝なんだ。メールとかするとよく寝落ちするし」

嘘と気づいた佳奈子が小さく吹き出したが、後輩はあっさり納得してくれた。

「で? 本当のところは?」

ちょいちょいと佳奈子に横からつつかれ、湊は小声で真実を告げる。

「寝るまで背中ぽんぽんしてきた。朝には帰りますって手紙だけ置いてきたよ」

「あららー、ずいぶん意味深な内容ね」

面白がる佳奈子と共に、湊は小さく笑った。

「たまにはいいだろ。ちょっとくらい心配してくれたって」

「まぁね、遥ちゃんの愛情ってわかりにくいとこあるし。……で、ちょっとお願いあるんだけどいいかなー小宮」

何?と首を捻った湊の胸ぐらに突如掴みかかり、佳奈子は寝不足で血走った目をぎらつかせた。

「脱げ」

「………んん?」

「脱げぇぇ! 鎖骨と腹筋見せろぉぉっ!」

コートの下のトップスをぐいっと引き上げられ、湊は慌てて裾をひっつかんで戻す。

「やめろぉ! てか落ち着け! 目怖ぇよ!」

「先輩! ついでに肩甲骨もお願いします!」

「君らまで何言ってんの!?」

原稿とペンを片手に、佳奈子がじりじりとにじり寄ってくる。その時ちょうどインターホンが鳴り、湊は素早くドアを開け放った。

「俺出てくるから!」

逃げるようにリビングを後にし、玄関のドアを開ける。この修羅場へ応戦に来た仲間かと思いきや、そこに立っていたのは部屋着姿の凌也だった。

「うるさいんだが」

背後から言い知れぬオーラを放ち、普段より幾分か低い声で凌也が唸る。泣く子も黙る機嫌の悪さ──と称したいところだが、泣く子がいればすぐさま抱き上げてあやすのが凌也である。しかしながら、それが子供以外なら容赦なく殺せそうな鋭い眼光だ。湊もたじたじと後ずさった。

「かりんが起きたらどうしてくれる」

そこかよ!とつっこみたいのをこらえ、

「ご、ごめん……いろいろ立て込んでて」

本来なら佳奈子に謝らせたいところだ。が、さっきの騒ぎは自分も一応加わっていたのでおとなしく謝罪することにした。凌也はこくりと頷き、並べられた靴を見下ろす。

「客が多いな。女物ばかりで…桜井はいないのか」

ふと視線を湊に戻し、凌也は首を捻った。

「お前、襟と裾がひどいな」

「あー、さっきのか…」

脱げ脱げと佳奈子に引っ張り回されたおかげで、生地がよれたり捲れたりしている。あちこちを直している湊と玄関の靴を交互に見つめ、凌也はうっすらと目を細めた。

「小宮……」

「んー?」

「……あまり桜井の悲しむようなことは」

「は? え、ちょっ、お前絶対誤解してるだろ!」

まくし立てる湊に疑いの眼差しを向けたまま、凌也はゆるゆると首を振る。

「いや、俺が口を出すことではないな。…鎖骨でも腹筋でも好きにすればいい。俺は帰るがくれぐれも静かに」

「聞こえてたんじゃねーか! だったら事の顛末わかって───待てこらっ、俺をいじるなっ!」

凌也は嘲笑を浮かべて口に手を当て、そそくさと出て行ってしまう。後半は凌也なりの冗談だったらしいが、湊にはいい迷惑だ。はぁ、と湊は肩を落としてリビングに戻った。



「ルシ。仮にも女子がんなとこで寝んなよ」

瀕死の彼女たちの代わりに印刷所へ赴いた湊は、帰宅すると食材の詰まったスーパーの袋を置いて見下ろす。廊下にへばりつくようにして佳奈子が転がっていたのだ。

「う……原稿…」

「届けた。だいぶ不審な目で見られたけどな」

これ、まさかお前が描いた?と言わんばかりにじろじろと訝しげに見つめられ、湊としては非常に居心地が悪かった。

「つーか、背中にやばい写植くっついてんぞ」

「どんな?」

「『ん、ぁ……っ』って。まるきり喘ぎじゃん」

佳奈子をリビングに引っ張っていき、湊は朝食の支度を始める。日がようやく昇ろうかといった時刻、締め切り明けの彼女たちはどれも屍のように眠っていた。

お握りを十個、サンドイッチを食パン一袋分、温かいスープを作ったあたりで佳奈子がうっすら目を開けた。

「いい匂い……」

食欲という本能のみで床を這う彼女の前に、湊が食事の乗った盆を置く。スープの匂いにつられて起きた面々もぱあっと顔を輝かせた。

「先輩、ご飯ですよ! おいしそうなご飯が! 夢ですか!」

「ああ、野菜とか何日ぶりだろ!」

「お腹すいたああ!」

徹夜明けにもかかわらず、彼女たちは猛然と米やパンに手を伸ばす。我先にとひっつかみ、スープをごくごくと流し込んでいた。

「あんま慌てて食わないほうがいいんじゃ? 胃に良くないから」

つやつやの出汁巻き卵をフライパンで作りつつ、湊が忠告する。後輩のひとりが紙きれを目にかざして叫んだ。

「何という女子力! 15000……ま、まだ上がるだと!?」

「俺、歴とした日本男児なんだけど」

プルル、と不意に電子音が流れ、皆がきょろきょろと周りを見渡す。はっとした湊はポケットに手をつっこみ、急いで携帯を開いた。

「はいはい」

『…どういうことだ』

数時間前の凌也並にご機嫌斜めな声が放たれる。湊の予想通りだ。

「ごめんごめん、ルシに呼び出されてたんだ。もうちょっとで帰るから。……心配した?」

『っ、そんな……別に、何でもない』

ひどく動揺した声の後、あっさり電話は切られてしまう。湊はこっそりと笑った。

「俺、帰るな」

「あら、そうだったわね。いろいろありがと。……あっ、待って待って」

紙類をがさがさとあさった佳奈子はとある一枚を引っ張り、湊に渡す。

「お礼よ。じゃっ、またね」

名残惜しそうな漫研女子たちにも別れを告げ、湊は部屋を出る。徹夜した瞳に朝日は眩しすぎたが、渡された紙をぱっと広げてみた。

「……おいおい」

とても朝に見る代物ではなかった。特典ピンナップと記されたそれには、風呂上がりの艶めかしい遥が描かれていたのだ。

「あー……やばい」

徹夜の疲れなんて簡単に吹っ飛ぶ。早く本物に会いたくてたまらなかった。

「走って帰るか…」

昨夜から今朝まで。寂しい思いをした分、させた分、帰ったら一番に愛してると言ってやろうではないか。



***
佳奈子の腐生活をお遊びで書いてみました。凌也の揶揄は安眠妨害の腹いせです←


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