「はーるか」

カーテンの隙間からベッドシーツに日が差し込む。湊の声と眩しさでうっすら目を開いた遥は、至近距離で顔を覗き込まれて素早く湊から離れようとした。しかし横たわっているままではせいぜい顔を遠ざけるくらいしかできない。

「おはよ」

爽やかな朝の目覚めに相応しい爽やかな笑顔を向けられ、遥はぱくぱくと口だけを動かして声にならない言葉を漏らす。横向きで枕に頬をつけている遥の眼前で、湊はかわいらしくラッピングされた箱を見せる。

「それ……」

ピンクのリボンに彩られた白い箱を見つめ、遥はゆっくりと体を起こす。改めて、湊は遥の手のひらに箱を乗せた。そして耳元に唇を寄せ、とびきりの甘い声で囁きを落とす。

「愛してるよ」

すぐ後に唇がちゅっと頬を掠めると、それを合図に赤みがどんどん広がっていく。遥は箱をぎゅうっと手の中に包み、知ってる、とかわいくない台詞をこぼした。

「まぁいいじゃん、再確認ってことで。遥を不安にさせるのは嫌だし」

「だ、誰が……っ」

揶揄が的を得ているのは少し悔しい。実際その通りだとしても、まだ認めたくはなかった。

(そうだ、俺も……)

箱を見つめていた遥ははっとする。
昨日、佳奈子とかりんから丁寧に指導してもらった結果、夕方には小さなハート型のかわいらしいチョコレートが六つ完成した。それを早々にラッピングし、湊には絶対見つからないだろう、勉強机の引き出しに隠しておいたのだ。

「あ……」

「ん?」

ちらっと引き出しに目をやれば、湊が首を傾げて尋ねてくる。

「どうかした? 甘いもの嫌いだし……やっぱりいらない?」

「ち、違うっ」

湊がしゅんと下を向けば、遥は慌ててかぶりを振った。

(恥ずかしがってる場合じゃないだろ……)

確かに甘いものは苦手だが、恋人からの贈り物を無下にするような酷なことはしない。

「そ、その……」

実は自分も用意したのだと言ったら、湊はきっと喜んでくれるに違いない。そう思うのに、緊張故か喉が詰まったみたいに息苦しくなる。なけなしの勇気を振り絞り、覚悟を決めて遥が口を開いたその時。

「あ、ちょっとごめん」

突如、湊のポケットからコール音が鳴り始める。湊は急いで携帯を取り出し、もしもし、と耳にあてた。

(何でわざわざこんな時に……)

さっさと用件を告げない自分が悪かったものの、電話の相手を恨まずにはいられない。湊は困った様子で頭を乱暴に掻き、やがて小さく肩を落とした。
電話はおそらくバイト先からだろう。湊が敬語を使う相手は、遥が知っている中ではそれしかない。

「ええ。……わかりました」

ちょっとだけため息をこぼして、湊は携帯をポケットにしまい込む。訝しんだ遥が箱を手にしたまま尋ねてきた。

「呼び出しか」

「うん……風邪で寝込んじゃった人がいるらしくて。代わりに出てくれないかって」

困ったように笑う湊に、遥は小さく息を吐き出す。こくりと首を振り、行ってこいと促した。

「ごめんな。いつ戻れるかはわかんないけど、おかずは作ってあるから適当に食べてて」

湊も本当に気落ちしている様子だった。せっかくのバレンタインなのに、と思うのは当然だろう。しかし予期せぬこととはいえ、恋人と一緒にいたいので無理ですとはとても断れない。湊はただでさえ、見知らぬ人のためにも尽くせるお人好しであるのだ。それは遥もよく知っている。

「ごめん……なるべく早く帰ってくるから」

その言葉にはあまり期待できない。遥はただ黙って頷いた。
忙しなく部屋を出て行った湊の後ろ姿に、きゅっと胸が締めつけられた。



(やっぱり帰ってこないか……)

湊がバイトに向かったのは朝だったが、窓の外はもう真っ暗だ。もともと今日は昼からシフトが入っていたので、交代の分に続いて自分のシフトもこなさなければならないのだろう。
リビングでひとりきりの食事は味気ない。特に、何の音もしないというのが落ち着かない。いくらか温めたおかずとご飯を口に運びながら、遥はテレビの電源を入れた。女性リポーターが、人通りの多い駅前で街頭インタビューをしている。

『今年はチョコを何個もらいましたか?』

『いやー、少ないっす。三つですから』

高校生らしい男の子が照れつつも答えると、隣にいた友人からすかさず頭を叩かれる。俺は一個もねぇし!と哀れみを含んだつっこみが叫ばれた。

(せっかく作ったのに……)

かりんに教わりながら何とかラッピングした箱は、暖房が届かないソファの陰に置いてある。湊が帰ってきたらすぐ渡せるようにだ。

(ほんとは誰かとデートでもしてるんじゃないのか……)

そんなことあるはずないとわかっていても、絶対とは言い切れないのが悲しい。湊がそう思わなくても、相手側から言い寄られることは十分にあるだろう。さっきの電話だって、湊と一緒に仕事がしたいと思っている年上の先輩かもしれない。

「………」

どうも気持ちがもやもやする。食事にはあまり手をつけていなかったが、遥は箸を置いた。

バレンタインにチョコレートを渡すことがこんなにも難しいなんて考えもしなかった。どちらかというと、遥が問題視していたのはチョコ作りのほうだった。世の女性は凄いなと感心しかけたその時、玄関のほうから物音がした。

「ただいまー」

その声に慌ててソファの後ろへ回り込み、箱をひっつかむ。顔だけを覗かせて待つと、やがて湊がリビングに入ってきた。

(あ……)

湊が手にしていた紙袋にはバイト先でもらったらしいチョコレートが詰め込まれている。その数はおそらく十を越え、かわいらしいメッセージカードやリボンに彩られていた。

「あれ? あ、何してんの? そんなとこで」

きょろきょろと部屋を見回して遥を見つけた湊は、荷物を壁際に置いて遥に近づいてくる。遥は首を振り、箱を置いてそろそろと出てきた。

(あんなのにかなうわけないだろ……)

料理スキルが圧倒的に高い女性たちのチョコは、まさか型に流しただけのものではあるまい。すっかり自信をなくしてしまった遥はしゅんと頭を垂れた。



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