朝、家を出ると、天気予報で告げられた通り、外は爽快な秋晴れだった。気持ちとしてはまだ夏の気分だが、肌を掠める風は涼しく、見上げた空も高い。まるで洗練されたかのように、月曜日のだるさはすっかり消えた。
風に揺られて、色素の薄い髪がぱさりと眼鏡にかかる。夏の間に放置していたせいか、前髪もずいぶん長くなってしまった。

「なに空なんか見てんだよ、桜井!」

前方から俺の名前を呼んで駆けて来たのは、中学からの友達の小宮だった。よく人に“何を考えているのかわからない”と言われる俺の、唯一の理解者なのだ。

「別に。いい天気だなと思っただけだ」

「いい天気? バカ、こんなに寒かったら体育が陸上になっちまうだろ! 俺の愛してるプールはどうなるんだっ」

せっかく前日に用意してたのに、と小宮は大げさに嘆いた。

「知るか、俺は入りたくない。……陸上も嫌だが」

水泳や球技が好きな小宮と違って、俺はまず体育そのものが嫌いだった。体を酷使してだらだらと汗をかいて、いったい何が楽しいというのだろう。仲間との交流? そんなの勝手にしてくれと思う。

「そりゃ、お前は根っからの数学バカだからな。この前の単元、何点だっけ?」

「96」

そっけなく答えた俺に、小宮はうわぁ、とおどけてみせる。

「お前って奴は……俺なんてレッドゾーンギリギリだってのにっ」

33点だぞ、信じられるか!?と小宮は青空に向かって絶叫した。どうやら、勉強したにも関わらず、思うように点数が取れなかったらしい。

「普通に勉強してればそんな点数取らないだろ」

とは言ったものの、小宮の場合は数学の時間に惰眠を貪っていることが主な原因なのかと、俺ははたと気がついた。

「あーあ、古典も単元テストとか無いのかな」

「あってたまるか」

古典は小宮の得意教科で、今まで俺は考査で勝てた覚えが無い。古文や漢文はもちろん、あの忌々しい文法まで全てが完璧だ。俺の成績はどうか訊かないで欲しい。

「やっぱり好きなのは古文かな。昔の人の感性が光ってる」

お前の顔も光ってるぞ、というつっこみは心の中に留めておいた。俺だって、好きなものを語っている時に水を差されたら黙っていないだろう。

「そういや、今日提出の進路選択のやつ、お前はどうすんだ? まぁ、お前は当然、文転はしないんだろうけど」

「進路選択?」

覚えのないそれに首を傾げると、おいおい、と小宮は俺を横から小突いた。

「とぼけんなよ。文理選択とか将来の職業とかを書く紙、2週間前に渡されただろ?」

「ああ……コーヒーこぼして捨てたような」

「何だよ捨てたのかー、ってえええええ!?」

小宮はすっとんきょうな声を上げ、どうすんだよ、と心配そうに俺を見る。この“心配そうに”を見る度に、俺は何とも言えない気持ちになるのだ。人が困っていたら助けるというのは立派な心掛けだが、俺はあいにくそこまで他人に情けをかけようなどとは思わない。

つまりは小宮が優しい心の持ち主なのだということを言いたいのだが、それ以前に俺とまともに会話してくれる時点でこいつは相当いい奴だ。

「お前、菅谷に殺されんぞ。忘れたならともかく、捨てたとなると……」

「別に出す気もないからいい」
せっかく人が真剣に考えているのにと叱られると思ったが、小宮はぽかんと口を開けていた。

「……出す気がないって?」

「決めてないからだろ。進路なんて」

学校はもちろん、家でまで強制される勉強。それに、果たして何の意味があるのだろう。名門の大学に合格することが、そんなに良いことなのだろうか。それを目標としたところで、いったい自分にどういった利があるのだろうか。ぱらりと視界に落ちてきた前髪をかき上げ、俺はため息をついた。

「そ、そうか……まあ、焦って決めることでもないしな」

大丈夫だろ、と俺を励ますように小宮は言う。

「そういえば、お前はどうするんだ?」

ふと気になって訊くと、小宮は言いにくそうに小さく呟いた。

「俺さ、……教師になりたいんだ」

「教師?」

「俺、古典が好きだから、一生勉強できたらいいなと思って。人と関わるのも嫌いじゃないし、球技系の部活の顧問とかやりながら、学生に古典の楽しさを伝えていけたらな……っておい、笑うなよ!」

熱心に夢を語る小宮の、しかも教師という不釣り合いさに、俺は思わず鼻で笑ってしまったのだ。

「ったく、何だよ。お前が訊いてきたんだろ」

小宮はすっかりふてくされてしまったようで、ふん、と盛大にそっぽを向いた。

「教師ってイメージが全く浮かんでこない……」

「どうせ似合わないとか思ってんだろ。……でも俺は本気だからな」

瞳の中に宿る意志に、俺は小宮の本気を感じた。

「……まぁ、頑張れ」

夢のない俺にはわからないが、それだけは言いたくて口を開いた。ああ、と頷いた小宮はいっそう輝いて見えた。

「そうだ。お前も教師になってみたらどうだ?」

「俺が?」

「お前数学好きだろ? 教師は向いてると思うぞ」

小宮の言葉に、はは、と俺は力なく笑う。人付き合いを嫌う俺が、コミュニケーション能力を要求される職業に向いているとは思えない。

「やっぱさ、好きなことを仕事にできるって幸せじゃん。そうだろ?」

「まぁ……」

確かに、数学の勉強を一生続けていけたなら楽しいだろう。けれどやはり、人と接することに関しては苦手意識が消えない。

「どうしたもんかな……」

やれやれと、ため息をついて見上げた空はどこまでも青かった。



「あら遥、おかえり。ずいぶん遅かったわね」

「……担任に呼び出し食らった」

帰宅して居間へ行くと、祖母が穏やかに俺を迎えた。俺の実家は京都にあり、両親はそっちで働いている。あまりの忙しさに、子供の俺の世話をする暇もなく、俺と姉だけは3年前に祖母の家に預けられた。高校入学当初、高校生なら一緒に住んでも大丈夫では両親に勧められたが、「負担になんかなっていませんよ。むしろ話し相手が居て楽しいの」という祖母の言葉に甘え、今もこうしてこの家に住んでいる。まあ、「引越しなんてすんなよ!」という小宮の泣きそうな言葉も理由ではあったが。

「何かしたの?」

「進路希望の紙、出さなかったから」

小宮の予想通り、2学年で一番恐れられている担任の菅谷に、俺は放課後の職員室で説教されたのだ。大半は聞き流していたから覚えていないが、明日の放課後までに紙を提出するようにということだけは何度も念を押された。

「遥はまだ、決めていないの?」

「……迷ってる」

鞄を横に置き、俺は祖母とテーブルを挟んで向かい合うように座った。

「小宮は、教師になるつもりらしいけど」

「小宮くんが? 立派ね、きっといい先生になれますよ」

湯気の立っている湯のみを持ち、茶をすすって祖母は笑った。

「……お前も教師にならないかって、小宮に言われたんだ」

少し迷って口にすると、祖母はやはり驚いたようだ。

「そうなの? じゃあ遥、教師になるか迷っているのね」

黙って頷くと、祖母は湯のみを置いて俺に訊いた。

「遥はどう思ってるの?」

「数学は……続けたいと思う、けど……」

時たま言葉に詰まりながら、俺は今の自分の気持ちを祖母に話した。自分が極度の人見知りなことや、他人に人一倍興味がないことを。

「そうね。あなたは優しい子だから、人を傷つける言葉は絶対に言わないもの。興味がないっていうよりは、自分からは関わらないようにしてるのね。だからきっと、自分を遠慮させちゃうの」

それがいいところでもあるんだけどね、なかなか難しいわと祖母は困ったように笑った。

「でも私はいいと思うのよ。数学にしか興味を示さないあなたが、今こんなにその職業に惹かれているんでしょう? やりたいと思うなら、頑張ってみればいいんじゃないかしら」

「……母さん達は、反対するかな」

両親はおそらく、長男である俺に仕事を継がせたいと思っているのだ。同居の申し出を断ってここに居る分、迷惑はかけたくなかった。

「しませんよ。きっとあなたの成長を喜んでくれるわ。次の週末はこっちに来るそうよ。晶も都合が着いたら来ると言ってたから、久しぶりにみんな揃うわね」

晶というのは3つ上の俺の姉のことで、今は一人暮らしで県外の大学に通っている。

「料理は作りがいがあるでしょうね」

「いろいろ……ありがとう」

普段は口にすることのない言葉を述べると、祖母は照れくさそうに笑う。

「身内に遠慮するもんじゃないわ」

「ああ……じゃあ」

鞄を持ってふすまを開けると、遥、と後ろから呼び止められた。

「私が生きているうちに、教員免許を見せてね」

なんてね、などと洒落にならない冗談を飛ばした祖母に、俺はもう一度、心の中で礼を言った。




「おーい桜井、帰ろっ」

翌日の放課後。帰る準備をしていると、下の階から小宮が階段を上ってくるのが見えた。

「今日暇だろ? カラオケ行かないか?」

「俺は歌わないぞ」

教科書を鞄に詰めながら言うと、はいはい、と小宮は頷いた。

「ったく、ちょっとくらい歌えばいいのに……って痛ぁ!」

持っていた古典の教科書で頭を叩くと、こらっ!と小宮は途端に憤慨した。

「お前は古典を馬鹿にしてんのかっ!」

「お前だって数学を馬鹿にしてるんだからお互い様だろ」

授業態度を責められるとぐうの音も出ないのか、小宮はうっと言葉を詰まらせた。

「職員室行ってくる」

「え? あ、あれ提出しに行くのかっ? 見せろよー!」

ついて来る小宮の声を無視して、俺は紙面に目を落とす。書いた箇所に間違いがないことを確認して、コンコンと職員室のドアをノックした。

「失礼します」

きっとあの菅谷も、これを見たらぐうの音も出ないだろう。そんなことを思いながら。

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