・ハロウィーン


「トリックオアトリートっ」

十月三十一日、夕方。バイトから帰ってくるなり、湊は満面の笑みを浮かべて叫ぶ。リビングのテーブルで参考書と向き合っていた遥は嫌そうに顔をしかめた。

「何だよ、お祭りに乗っかったっていいじゃんか。こういうのは楽しんだ者勝ちだろ」

遥がイベントに乗り気であるほうが珍しいとわかっていても、真っ向から拒否しなくてもいいではないか。
湊がぎゅうっと遥に抱きつくと、ハードカバーの分厚い本で後頭部を強打される。それなりに痛いが、華奢な体をこの腕に抱ける喜びに比べれば微々たる痛手であった。

「あんなの、日本の行事じゃないだろ。クリスマスも正月もお盆もある国なんて……」

「まぁまぁ。それで経済が潤うなら万事解決ってことで。それよりお菓子!」

宗教に関してぶつくさと文句を言う遥を無理やり黙らせ、両肩を揺さぶって要求を突きつける。はぁ、と遥が深くため息をついた。

「ふふん、お菓子に縁のない遥は絶対に持ち歩いたりしないだろ。ということは、お菓子がもらえない俺は遥にいたずらするしかないわけだ。ああ、かわいそうにな。いっぱいいたずらされて泣いちゃう遥もかわいいけどせっかくだから羞恥プレイとか───ん?」

「ん」

視界の中央を陣取った影に気づき、湊の声が止まる。いくらか瞬きした後、湊はその物体を指でつまみ上げた。丸の両端に放射状の帯が付いた包み紙は、

「アメだ」

「………はい?」

おかしい。甘いお菓子を苦手とする遥が、こんなかわいいものを携帯しているわけがない。まじまじとアメを見つめても、それは紛れもなくただのアメ。アメです、と全身からオーラを放つただのアメ。

「ルシがくれた。今日という日にかこつけて襲われたくないなら持っておけ、と」

「ルシいいいぃ!!」

だんっだんっと床を拳で叩き、湊はとある腐女子を呪った。彼女は所詮遥の味方、イコール湊の敵に等しいのである。

あんなことやこんなことをしたかったのに、ととても素面では語れないプレイの数々を思い浮かべながら、湊は携帯を手にする。彼女に文句のひとつでも言わなければ、臨戦態勢直前の心も体もおさまりがつきそうにない。
忙しいのだろうか、長いコールの後に出た佳奈子は少し不機嫌だった。

『はい? 何よ』

「よくも遥にアメなんぞ持たせやがってくれたなぁ?」

『あんた日本語おかしい。それでも国文?』

恨みが勝手に口をついて出たせいで、何とも言えない言葉遣いになってしまう。佳奈子は鼻で笑いながら続けた。

『ていうか当たり前じゃない。あんたはいたずらのつもりでも、かわいい遥ちゃんはたまったもんじゃないわよ。どうせ縛るのとか目隠しとかでしょ』

「いや視姦だけど」

『結局ろくなもんじゃないわ! とにかく、あたしもいろいろ忙しいの。どうしてもなら遥ちゃんに頼み込むのね。それじゃ。さーて、あとは帽子被ろうねー』

"ほぇっ、これもですかぁっ"とかりんの困惑した声を最後に電話は切られ、湊は恨みがましそうに携帯を握りしめる。

「くそ……ルシの馬鹿…っ」

「馬鹿はお前だ」

冷たく言い放たれた言葉にまた落ち込みそうになったが、仕方ないかと割り切って遥のほうを向いた。

「まぁ……そうだな。ちょっとくらいいたずらさせてくれるかなーなんて淡い期待を持った俺も馬鹿だよ。でもほんとはさ、祭りに便乗したかっただけなんだ。お前と一緒に」

カリカリとノートの上を走っていたシャーペンがふと止まる。遥は表情を変えないまま、じっとノートに目を落としていた。

「ほら、遥の家って基本的に日本の行事だけじゃん。綾さんも晶さんも、クリスマスとかバレンタインとかやらなかったみたいだし。……だから、ちょっとだけ。な」

バイト先であるコンビニの袋の中には、消費しきれるかどうかもわからないほどのお菓子やジュース、ホットスナックが詰め込まれている。こんなイベントにはしゃぐなんて馬鹿みたいだと思うのに、嬉しそうな湊の顔を見ればまぁいいかと思い直してしまうから不思議だ。

「ほらほら、唐揚げもあるよ。家で作ったやつには負けると思うけど」

「菓子じゃないだろ」

「いいのいいの。さっき言ったじゃん」

楽しんだ者勝ち、って。
テーブルに袋の中身を広げ始めた湊はいかにも楽しそうで、遥も小さく肩を竦めて勉強道具をしまう。しかし悪い気はしなかった。

「ね、遥もさっきの言って?」

さっきの、とは湊がこの部屋に入るや否や発した言葉だ。遥は僅かに逡巡した後、こっそりと呟いた。

「トリック……オア、トリート」

「んー、迷うな」

迷うとはいったい何のことか。遥が訝しげに首を捻れば、

「素直にお菓子あげてもいいけど、いたずらも捨てがたいし? 遥からのいたずらなんて貴重だからなぁ」

くすくすと湊が笑うところからすると、後者に決めたようだ。いたずらといっても人をからかうような趣味は持ち合わせていないので、いざ求められると遥こそ迷ってしまう。しばらく悩んだ末の結論は。

「アメ……返せ」

「へ? う、うん……」

佳奈子からのアメを取り戻してから、遥はぱっと顔を背ける。

「……?」

今のがいたずらだとしたら、どんな意味があったのだろう。
あのアメは、遥が湊からのいたずらを回避するために渡したもの。それを戻したということは即ち──撤回だ。

「もー……何でそうかわいいことばっかするかな」

「うるさい!」

耳まで赤らんだ遥を背後から抱きしめ、湊は満足げに笑う。

「いたずらの時間の始まり、ってことでいいのかな」

返事はなかった。ただ、遥がコートの端をきゅっと引いただけだ。

二人がお菓子に手をつけるのは、まだまだ先のこと。



***
ハッピーハロウィーン。
いたずらがしたくてたまらない湊といたずらが欲しくてたまらない遥でありました。きっとかぼちゃプレイとかされます。内容はわかりませんが。

↑main
×
- ナノ -