「ただいまー」 リビングのドアががちゃりと開けられ、珍しくスーツ姿の湊が部屋に入ってくる。時刻は夜零時過ぎだ。 「遅い」 不満そうな顔で唇を尖らせた遥はちょうど風呂から上がったところだ。ごめん、と湊は肩をすくめた。そして柄にもなくソファにダイブする。遥はぎょっとした。 「うー…頭痛いし気持ち悪い…」 突っ伏したクッションからは呻きが聞こえる。遥は小さくため息をついた。 今日は湊のバイト先での親睦会、という名目の飲み会だったのだ。年上が多く参加するということで一応スーツを着て夕方出かけて行ったのだが、この様だ。遥はソファの横にしゃがみこんだ。 「飲み過ぎか」 「……俺、相当酒強いじゃん。そのせいで面白がって飲まされてさ」 クッションから僅かに顔を上げ、情けない表情を遥に向ける。 湊が酒に強いのは前々から知っている。一緒に飲んだことはないが、佳奈子曰わく"鋼鉄の肝臓の持ち主"だそうだ。そんな湊なら、いったいいくら飲めばこんな状態になるのだろう。考えるだけで気が遠くなってくる。 「断れ」 「断ったよ。でも俺も一回くらい、限界を知りたいなと思ってさ」 そう考える時点で既に酔っているような気もする。遥、と不意に名前を呼ばれて目を合わせた。 「水ちょうだい」 湊が頼みごとをする時はどうにもならなくなった時だけだ。それか、いかがわしいことか。 キッチンから水の入ったコップを持ってくれば、ぐいっと後頭部を抱かれる。 「口移しがいいな」 「ふざけんな」 遥が顔色を変えないままコップを押し付けると、湊は苦笑してコップを受け取る。さっさと空にしてからコップを遥に返し、ごろりと仰向けに横たわった。 「あー……頭がんがんする…」 「薬飲め」 とはいえその薬も自分が持ってくる羽目になるだろうが、二日酔いの薬なんてどこにあるかわからない。すると湊は力なく首を横に振った。 「吐きそうだからいらない」 途端に遥が後ずされば、湊はくすくすと笑い始める。 「もう吐いたから大丈夫。胃の中空っぽだし」 物騒なことを言う。こう平然とはしているが、本当は頭痛と吐き気で死にそうなのかもしれない。遥はおずおずと距離を縮めた。 「吐いたって……どこで」 まさか漫画じゃないのだから路上ではやらないだろう。湊は微笑んだ。 「はは、覚えてないや」 「…………」 これはまずい。遥は直感的にそう思った。 病気どころか風邪も引かない健康体の湊が、ここまで自我をなくしたことは今までになかったはずだ。少なくとも、遥が見てきた中ではかなり危ない類に入る。 「ん………」 目を閉じて軽く寝入りそうな湊を見ていて、遥はふと気づく。未だにネクタイがかっちりと締められたままだった。さすがに苦しいだろうと思い、そっと手を伸ばす。しゅるりとそれを緩めれば、湊は薄く目を開けた。 「ん……何…?」 「別に」 とはいえ遥の手元を見れば一目瞭然だ。ああ、と湊は納得した。 「そっか……どうりで楽になったと思った」 やはり今の湊は危ない。 ため息をつきつつ、次にベルトを外しにかかる。湊はぱちりと目を開け、なんだ、と笑った。 「さすがにそのあたりでごそごそやられるとちょっと驚くな」 「は?」 何を、と尋ねようとして、遥ははっとする。ベルトを外すといったら、湊が思い浮かべることはだいたい予想がつく。 「違う! そんなっ……」 「違った? こういう時じゃないと俺は襲えないだろうから」 思わず頬が真っ赤になってしまい、遥はクッションを思い切り湊に投げつける。湊は笑ったままだ。 「別に構わないけど、どうせ酒たんまり飲んでるから立たないと思うよ」 「………?」 「あれ? 知らない? 酒飲むと不能になるの」 今度は耳まで赤く染まる。クッションを掴み直してもう一度ぶつけてやり、遥は湊に背を向けた。 心なしか、今の湊はいつも以上にそういった話題をストレートに告げてくる。これが深層心理なのかと思うと若干怖い。 「はーるかー」 「うるさい」 「こっち来てよ」 「うるさいっ」 酒のおかげで人に絡みたくなっているのだろうか。飲み会の中でもこんなふうだったのでは、と遥は危惧した。すると、周りの年上の女性に甘えたことを言ったり──。 「いだっ! 痛い!痛いって!」 頭をぽこぽこと殴ると湊から悲鳴が上がる。そういえば今は酷い頭痛に悩んでいるのだった。遥は慌てて手を引っ込める。 「もー、何だよいきなり。怒ってんの?」 「別に」 ふいっと目をそらせば、当ててあげようか、と湊が怪しく微笑む。 「俺がバイト先のお姉さんたちに甘えてないか心配だったんだろ? 酔った勢いでさ」 「〜っ!」 ぎゅっと手を握りしめてこらえたのに、湊は勝ち誇ったように笑っている。そしてぐいっと腕を掴まれ引っ張られた。 「ちょ……っ」 「いいからこっち来いって。ほら」 いつもよりずっと強引な言動に頭がついていかない。湊は体を起こし、ソファに引きずり込んだ遥を組み敷いてきた。 「俺が甘えるのなんてお前だけだよ」 「うるさ……んぅっ」 反論する間も与えられずに口づけられ、遥はきつく目をつむる。いつもなら唇の隙間からそっと侵入する舌が、ぬるりと半ば無理やり押し入ってきた。 「んっ……んぅ……」 後頭部を抱えるように押さえ込まれ、熱い舌で口腔をかき回される。ちゅぷ、くちゅ、と響く水音が恥ずかしい。 (こんなの…めったにしない……) たまに余裕がない時にこういう荒いキスはするけれど、いつもの湊は遥がきちんと息継ぎできるようにゆっくりとする。今は勢いこそ全てと言わんばかりに求められて、酒の匂いと舌の熱さに頭がくらくらしてきた。 「ん……っふぁ……」 口を離しても舌同士は唾液で繋がれていて、卑猥な光景に思わず目を反らす。湊は遥の髪をくしゃりと掴み、首筋にそっと顔を埋めた。 「っ……」 ぞくぞくと背筋が痺れたのを感じ、遥は無意識に湊の胸を押しやる。あんなキスをされてただでさえクラッときているのに、続きをされたらあっという間に陥落してしまう。湊は酒でどうにもならない状態なのに、自分だけが高められるのは嫌だった。 「風呂上がり?」 すん、と髪の匂いをかいだ湊に尋ねられ、遥は頷く。どくどくと高鳴る胸に湊の手が置かれると、心臓がひときわ激しく脈打った。 「凄くいい匂いがする」 「や……も、はなせ……っ」 髪の生え際あたりを唇でたどられて、遥は力の入らない腕でぐいぐいと湊の体を押しのけようとする。湊は顔を上げて楽しそうに笑い、遥の瞳をじっと覗き込んだ。 「かわいいなぁ。ほんとに食べちゃい……むぅ」 「は? ちょっ」 遥に覆い被さったままの格好で、湊は突如、ソファにぽすりと頭を沈ませてしまう。耳元では彼の安心しきった寝息が聞こえた。 「寝るなっ!」 自分より十キロ近く重いおもりがのしかかっている状態はかなり酷だ。遥は必死で湊の背を叩いたり体を揺らしたりしたが、湊はよくわからない寝言を呟いただけだった。 「……はぁ」 思わず大きなため息が漏れる。湊への呆れと、強引な湊に少しでも胸をときめかせてしまった自分への後悔だった。 目を覚ますと何故か湊の部屋にいた。はっきりしない頭をこつこつと叩いて遥は記憶を探る。 昨夜はどうにか湊を起こして部屋に連れて行き、スーツのままベッドに押し込んだ。そこまではよかったが寝ぼけた湊に無理やり引きずられ、あえなく一緒に眠る羽目になったのだ。 (腹立つ……) 渋面のままリビングに向かうと、既に湊は朝食の準備に取りかかっていた。その顔はかなりすっきりしており、二日酔いは何とか避けられたらしい。 「おはよー。ん、何怒ってんの?」 「別に」 恨みがましく湊をじろりと睨んでやり、食パンを袋から出してトースターに放る。あのさぁ、と湊はキッチンから近づいてきた。 「俺、昨日どうやってここに帰ってきたんだ?」 「………は?」 遥の眉がきゅっと寄る。対する湊は悪びれた様子もなく、 「たぶん駅からタクシーで来たんだろうけど、何も覚えてないんだよなぁ。朝起きたら遥と寝てるし、そこのソファにネクタイとか散らかってるし」 ということは、昨夜の行動は全て湊の深層心理に基づいたものだったようだ。つまりいつもの過度な愛情表現でさえ、割とセーブをかけたものなのだ。 (嘘だろ……) 本能の赴くままに湊が行動していたら、いったいどんな目に遭っていたことか。遥は少し怖くなった。 「なぁ。俺、何かした?」 「うるさい!」 けれど。あの強引な態度はたまにあってもいいかもしれない。そんなことをちらっと考えた遥は、当の本人に八つ当たりをするべくクッションを投げつけた。 *** 酔った湊はただの変態です。騙されてはいけない。 そのうち酔った遥もかいてみたい ↑main ×
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