(今日もか……)

外した眼鏡をかちゃりとサイドボードに預け、遥は枕に頭を乗せて軽くため息をつく。ちらりと時計を見れば11時を過ぎようかといったところ。眠るには少々早い。
とはいえ特に眠くもなく、最近は夏休みだからかつい夜更かしをしてしまうことも多い。することがない遥は、昼間はエアコンの効いたリビングでだらだらと過ごしていた。

(もう寝たのか……?)

隣の部屋から物音はしない。いつもなら何かしらの音がするか、もしくは部屋の主がいないことが理由で静かなものだ。

(さすがに疲れてるだろ……)

夏休みに入ってから、今こそ稼ぐ時なんだと言い張った湊は、宣言通りすっかりバイト三昧の日々を送っている。しかしシフトを見ると労働基準法をいくらか越えたようなものもあり、時間帯も昼夜関係なく駆り出された。湊はそれでいいと言っていても、こうも暑いとさすがに遥も心配になってくる。湊に体力がないとは決して思わないが、少しくらい休んだほうがいいのでは、と思う。
その上、バイトに加えて日々の家事もこなしているのだから夜はくたくただ。普段は二時近くにならないとベッドに入らない湊も、最近は今くらいの時間に自室へこもってしまう。夜更かしも心配と言えば心配なので、ある意味では健康的かもしれない。しかしそこは湊にとって丁度いい生活時間というものがある。実際、あまり睡眠を取ると逆に調子が悪い、とも本人は言っていた。

「はぁ……」

知らず知らずのうちにため息がこぼれる。洗濯したてのシーツが妙に憎らしくて、ぎゅっと皺を寄せてやった。
───最後に湊の部屋で眠ったのはいつだっただろうか。ぱっと考えつかないのなら、相当前ということになる。

(別に、だからどうしたってわけでもないが)

ベッドは男二人がほどほどに寝られるくらいの広さだが、疲れているならひとりで悠々と眠ったほうが間違いなく楽だ。湊も疲労を自覚しているからか、自室に遥を招くことはここ最近ではない。だが逆に、そうまでされると何が何でも部屋に行ってはならない気がして、ちょっとした用であっても明日に繰り越すようにしている。もともと、湊の部屋を訪れるのは湊から招かれることがほとんどだった。だから、部屋に来て、と湊から言われないと何となく釈然としない。自主的に行ってはいけないんだろうか、と思ってしまうのだ。

(だからって、用があるわけでもない。……でも)

もし遥が疲労困憊していたら、湊は徹底的に甘やかしてくれるだろう。風呂上がりに爪まで整えてくれそうだ。疲れが取れそうな献立にして、ゆっくりと肩を揉んで、清潔なベッドに寝かせて。遥が安心して眠れるまで、優しく髪を撫でてくるような、そんな甘ったるいもてなしができてしまうのが湊だ。もちろん遥限定だが。
遥だって、ただでさえ忙しい湊に平気で家事をさせるほど傲慢ではない。手伝いたい気持ちは山々でも、"手伝い"が"余計な手間"になってしまうことが目に見えているから手が出せないだけだ。
けれど湊を癒す方法はきっとそれだけではない。遥もそれはよくわかっている。わかっているからこそ──こうして迷っているのだから。

(いくらだってあるだろ。いやでも……何でわざわざそんなこと…)

お疲れ様とか、無理しないでとか。人を気遣う言葉はたくさんある。たったそれだけの言葉でも、きっと湊なら気持ちを汲んでくれるだろうと遥も思っている。だが如何せん遥は、思ったことを素直に言葉にすることを何より苦手としていた。無理するなと言いたくても、いざ本人を目の前にすると"そんなことしてると倒れるぞ"といった嫌みになってしまう。おそらく湊ならそれが本意でないとわかってくれるが、それではあまりに横暴だ。逆に湊に気を遣わせてしまう。

(とりあえず……行ってみるしかない)

意を決して起き上がり、恐る恐る湊の部屋へ向かう。ドアの隙間からは明かりが漏れていた。

「起きてるのか」

少し驚いたように言って遥がドアを開ける。と、ベッドに寝転んで文庫本を読んでいた湊が顔を上げた。

「あれ、どうかした?」

遥がこの部屋を訪れるのは珍しいからか、湊もぱちりと目を瞬かせる。遥はきゅっと唇を噛んでベッドに近づいた。

「……さっさと寝ればいいだろ…」

ん?と湊は首を傾げる。どうしても乱暴になってしまう己の台詞に、遥は歯痒さを感じた。

「何でもない」

ぷいとそっぽを向いた遥に、

「んでも遥、起きてるのか、ってことは俺が寝てると思って来たんだよな?」

ってことは、と湊がくすくす笑う。

「寝てる俺に何するつもりだったわけ?」

悪戯っぽい視線を向けられ、遥はかぁっと頬が赤らめる。暗に、夜這いの類を示唆されたからだ。遥は急いで首を振った。

「違う! そ、そんな……」

「その割には、俺が起きてるの見て残念そうだったけど」

それは単に、バイトの疲れを癒すなら早めに眠ればいいのにと思ったからだ。夜這いなんてするつもりはこれっぽっちもなかった。なのに湊はすっかり面白がってしまい、寝たフリしとけばよかった?などと遥を揶揄する始末だ。

「うるさい! ……もういい」

せっかく人が心配してやったというのに、こちらの気持ちも知らないで。
遥がくるりと背を向けると、後ろから手首を掴まれた。

「ごめんって。ちゃんと聞くから。な?」

むっとした表情のまま湊のほうを向けば、背中に触れた手が体を優しく抱き寄せてくる。遥は拳をきつく握りしめた。

「お前……ちゃんと、休んでないだろ」

ぽつりと小さな声が部屋の中に放たれる。開いた窓の外から虫の鳴き声が聞こえた。

「昼も夕方もバイトして……夜は家事して…、早めに寝てもいない。そのうち……」

両頬をそっと包まれ、遥は言葉を止める。視線を上向かせて見れば、湊は柔らかく微笑んでいた。

「心配してくれたの?」

首を思い切り横に振ってしまいたい衝動は何とか堪えたものの、頷くまでには至らなかった。込み上げてくる羞恥に、遥は目をつむる。さっきよりも強い力で湊に抱きしめられた。

「大丈夫だって。俺が倒れたりしたら、困るのは遥だろ? たまにきつい仕事はあるけど、自分の限界はわかってるし。無理はしてないから」

髪を撫でられると、遥は照れくささをごまかすように目を逸らす。

「でも……ありがとう」

ちゅ、と湊は遥の額に唇を落とす。羞恥故にむずむずとした感覚が湧き上がってきたが、ここでいつものように振り切ってしまったら今までの努力が水の泡だ。

「お……お疲れ…様」

消え入りそうな声で呟くと、顔だけでなく体中が熱くなってくる。困ったように眉を寄せた遥に、湊は一瞬驚いたような顔をして、やがて破顔した。


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