かなり怒っていた、と遥が感じたのは、湊はやはり鶴見に対してただならぬ嫌悪を感じていたと思うし、しかも指摘されたのが自分の弱い部分──独り善がりなどと言われて、遥がいなければきっと怒鳴りたかったに違いない。

(独り善がりなんかじゃ、ない……のに)

同じ分の気持ちを返すことはできなくても、少しずつ、思いやりを持って接すれば湊もわかってくれるはずだ。事実、この四年はそうやって一緒に過ごしてきたのだから。けれど湊にしてみれば、ずっと思ってきたのだからそれなりの気持ちを示してほしい、と感じるだろう。それは当然だと遥も思う。もし湊の立場であったら、自分のような扱いが面倒な人間はさっさと諦めて、違う恋に走りそうだ。湊の容姿なら、黙っていてもかわいい女の子のほうから寄ってくるのだから。

(あいつはそれでも、俺がいいのか……)

思われることに慣れてしまい、湊の気持ちをきちんと考えていなかった。この前の喧嘩だってそうだ。湊が自分を優先するのは当たり前だと感じているから、そうでないことが腹立たしくて仕方ない。そんなの、自分のほうがよほど独り善がりだ。

携帯を開いてみたが、着信もメールもない。不意に、携帯を持つ指がくすぐったく感じた。

「あ……」

遥の指をくすぐっていたのは、佳奈子が直したことによって少し上にビーズが付いた、あのストラップだ。以前はビーズがもっと下にあったため、持っても何ともなかった。

『お揃いって恋人っぽいじゃん』

そう笑って差し出された時のことを思い出す。そして少し前の、鶴見を意識させまいとしていた日も。

『直してでも付けたいって、思ってくれたんだろ?』

あの時、湊は本当に嬉しそうだった。その時は照れくさくて深く考えていなかったが、湊にとっては特別な気持ちをこめたものだったに違いない。それを持つことで、持たせることで、今の"恋人"の関係を遥に意識してほしかったのだ。今思えば、紐が切れても尚、携帯に付けられているそれを見るたびに、湊が微笑んでいたような気がする。

「馬鹿か……」

鼻の奥がつんとした。知らず知らずのうちに涙が浮かび、視界がぼやける。依然として変化のない携帯画面に、ぽたりと雫が落ちた。



テスト最終日。あれから三日が経ったが、湊の姿は見ていない。テストは講義と違って時間きっちりに終わるわけではないので、いつもの六人で食事をすることは最近ほとんどなかった。もちろんテストが終わったらまた元通りになるが、すぐに夏休みに入るから後期が始まるまでそうはならないだろう。学部がばらばらなこともあり、文系の湊や佳奈子に大学内で会うことは普段からめったにない。そのおかげでここ三日は全く湊の姿を見ていなかった。

午前中に最後のテストを終えても晴れやかな気持ちにはなれず、遥はひとりで食堂にいた。昼食を取っていると、席の前方から手を振る姿が見える。トレイを持った翼だ。こちらへ近づき、遥の向かいの席にトレイを置いた。

「やぁ、久しぶりじゃないか。テストは終わったのかい?」

「ああ」

こくりと頷いた遥は、自分をじっと見つめたままの翼に首を捻る。

「どうかしたのか」

「いや、余計なことかもしれないが……小宮と何かあったかい」

ぎくりと遥の表情が引きつり、それを見て翼は察したようだ。

「さっき、成島に借りた本を返しに文学棟へ行ったんだが、小宮にも会ってね。覇気が全くなかった」

何と言っていいかわからず、遥は頷いて続きを促す。

「成島も困っていたようだった。何かあったかと訊いても答えやしない、と。……すまない、私がこんなことを言うべき立場ではないんだが」

「いや……悪いのは俺とあいつだ」

遥は緩く首を振る。関わりのない佳奈子や翼に、少なからず気を遣わせてしまったことを申し訳なく思った。

「鶴見氏かい?」

遥は思わず目をみはったが、やがて小さく首を縦に振る。やはり、と翼は神妙な面持ちでため息をついた。

「成島もそう言っていた。そんなことでへそを曲げるなんて、小宮らしくないとは言っていたがね」

翼の声を聞きながら、遥は冷えた麦茶に口をつける。

「鶴見氏は確かに優れた人物だが、何というか──小宮が嫌う理由は何となくわかる。私もあまり得意ではないほうだ。そして」

そこでいったん言葉を切り、僅かな逡巡の後、翼が口を開いた。

「彼は君につりあわない。理由はないが、純粋にそう感じるのだ」

「え……」

正直に言って、意外だった。翼がそんなことを──遥の恋愛に関すること言うとは夢にも思わなかったのだ。

「私は小宮などどうでもいい。親愛なる君にべたべたと、厚かましいにもほどがある。……だがまぁ、君のために尽くす努力を認めていないわけではない」

ふん、と翼は口を尖らせ、照り焼きチキンを頬張る。そして半ば呆れ気味に訴えた。

「あれは異様だ。馬鹿みたいにまっすぐで、鬱陶しいと君が感じるのも至極当然。しかし……何だ、言いたいことはよくわかる。君のことが好きだというのは、誰が見ても一目瞭然だ。そういうのは悪くない。違うかい」

ちょっと照れたように翼が尋ねる。今までに翼が湊を褒めたことなどなく、唖然としていた遥はやっと我に返り、茶髪の頭を振った。

「……そう思う」

湊の愛情表現を受けていると、ほっといてくれ、と思うこともたまにある。けれど、不安な時、落ち込んでいる時、優しくなだめてくれた手に何度救われただろう。本気で叱られたこともあれば、心から褒められたこともあった。
湊が女の子たちから人気のあっても平然としていられるのは、抱きしめたりキスをしたり、どこか特別な扱い──いや、むしろ素のまま、湊が接しているのは自分だけだと知っているからだ。他の誰にも、こんなことはしないししたくないはず。
そう感じるのは時に自惚れでもあり、また、"恋人"としての自負でもある。湊だって、それは同じではないだろうか。

「夏風」

「ん?」

「ありがとう」

遥が小さく微笑むと、翼は慌てて麦茶を大量に飲む。食べ物が気管に詰まりかけたらしい。

「ど、どうということはないさ。私はただ、君にいつものように凛々しくあってほしいだけで」

「帰る」

「ああっ待ってくれ、気を悪くしたなら──?」

トレイを持ち上げた遥の表情は至って普通で、気分を害した様子もない。引き止めようとした翼はぱちぱちと目を瞬かせた。

「別に気を悪くはしてない。……帰って、きちんと話そうと思う」

小さな声ながらもはっきりそう告げると、翼は満足そうに頷く。

「名残惜しいが、それならば見送るとしよう。君の幸福を心から願っている」

大切なことに気づかせてくれた彼に心の中で再度礼を言い、遥は足早にトレイの返却口へ向かった。


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