しかし凌也は困ったように小さくため息をつく。そんな表情を見て、ずきりとかりんの胸が痛んだ。

「あ、えと……ごめんなさい、やっぱり先に休みますね」

せっかくの気遣いを断られ、凌也の気に障ったのだろうか。そんなつもりはなかったのだが、凌也を困らせることだけはしたくない。気持ちが通じ合っているからこそ、もう来なくていい、と以前のように告げられたらきっと今のほうが悲しい。涙がせり上がってくるのを必死に堪え、かりんはベッドに腰掛けた。

「悪いな」

レポート用紙を広げながら凌也が呟く。やっとのことで笑顔を作り、いいえ、とかりんは首を振った。


ベッドに潜り込むと、ふわりと凌也の匂いが鼻をくすぐる。いつもなら安心するはずのそれが今はつらい。

(我が侭言ったら、先輩が困っちゃう…)

緊張はあれど、泊まることに浮き足立っていたのは確かだ。凌也は遥のように人見知りはしないが、自分の領域に他人を立ち入らせたくないのは同じ。こうして自分が遊びに来ることを容認しているのは、少なからず心を許してくれている証拠だとかりんは信じていた。
だからこそ、嫌われるのが何よりも怖い。ここへ頻繁に通い過ぎて鬱陶しいと思われてしまったら、泊まることはおろか、遊びに来ることさえできなくなる。そうなったらどうやって会えばいいのだろう。学年がひとつ違うと、講義で会うことはほとんどない。

じわ、と涙の膜が瞳を覆う。かりんは慌てて指先でそれを拭った。

(だめだ……いくら好きでも、先輩なんだから…)

たとえ恋人でも、決して自分だけの存在ではない。年上でもあるし、かわいがってくれるだけでも満足しなければならない、のに。

(でも……)

もっと近くにいたい。
もっと存在を感じたい。

恋人という関係になってから、かりんが強く望んでいたことだ。
好きだと言って、抱きしめてくれるだけでもいい。ただ後輩としてかわいがってもらうだけでは、今までと何ひとつ変わらない。

そう、思ってはいけないのだろうか。


(…先輩はそういうこと、考えないの、かな……)

背後からは、キーボードを叩く規則的な音が聞こえる。時折、紙をめくる乾いた音もした。
ぎゅ、と枕カバーを握りしめ、かりんは目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、思いが通じた夜のこと。

(ちゃんと……恋人なんだって、思いたいのに…)

痛みも苦しみも、熱も快楽も。全部、凌也がこの体に残していったものだから。それが恋人の証だと言うなら、喜んで受け入れてみせる。
──なのに。

「……まだ起きてるのか」

不意に凌也から声をかけられ、びくりとかりんは身を震わせる。こうなっては寝たふりもできないだろうと思い、仕方なく上体を起こして下を向いた。

「ご、めんなさい……」

要は、早く寝ろとの催促だろう。一緒に眠る気はないと言われているような感覚になり、かりんは身を縮こまらせる。凌也はまた、小さくため息をついた。

(だめだ……ちゃんと、いい子にしなきゃ…)

自分を叱咤して横になろうとするが、体は動いてくれない。自分の不甲斐なさに涙が溢れそうで、じっとするほかなかった。

「っ………ふっ」

シーツを握りしめても抑えきれなかった涙が膜を張り、やがて頬を伝い落ちていく。かりんは慌てて手の甲でそれを拭った。液晶画面に目をやっていた凌也もそれに気づき、驚いてベッドに駆け寄ってくる。かりんは思わず顔を逸らした。

「み、なぃで……っ、なんでも、なっ……」

「何でもないのに泣くのか」

ベッドに腰かけた凌也が、なだめるように背中を撫でさする。そんな仕草でさえ、今のかりんにはつらかった。

「ごめ、なさい……ないて、こまらせ、てっ……」

ただただ凌也に嫌われることが怖くて、謝罪の言葉を口にする。だが一向に涙は止まらず、どうしていいかわからなくなったかりんは自らの切な願いを告げた。

「きらわ、ないでくださ……い。ちゃんと、わるいとこ、なおす……っから。いうこと、きくから……っ」

だから嫌わないでほしい。
それだけは伝えたくて、しゃくりあげながら何度も懇願する。と、濡れた頬へ不意に凌也の手が触れた。

「嫌うわけないだろう」

「ふ、ぇ………っ」

そのまま指を滑らせて涙をすくわれ、凌也の逆の手で抱き寄せられる。ぽすんと体が簡単に腕の中へおさまれば、ようやく涙が止まった。

「どうしてお前を嫌わないとならないんだ」

「だっ……て、ぼく……」

責めるような口調ではなく、優しく問いかけてくる声が心を温かく溶かしていく。ぎゅ、とかりんの手が凌也の服の裾を握った。

「いつも、先輩のこと……困らせて、ばっかり…で」

「それに対して俺が迷惑だとはっきり言ったことがあったか」

言葉を遮って尋ねられ、かりんはしばしの逡巡の後、緩くかぶりを振る。

「……いいえ」

「もし俺が何かに悩んでお前に助けを求めたら、お前は迷惑だと思うのか」

少し悲しそうな響きを含んだ言葉に、今度はしっかりと首を横に振った。

「……思わないです」

凌也のためなら何でもしてあげたい。そう思って初めて、かりんは凌也の気持ちを意識する。こくりと頷いて凌也が言った。

「俺もそう思う」

あっ、と。
かりんはやっとのことで、凌也の心が見えてきたような気がした。相手のために尽くしたいと思う気持ちは、自分も凌也も同じなのだと。

「お前は我が侭だと言うが……ああしたいこうしたいと言われなさすぎるのも、少し寂しい」

凌也の額がかりんの肩口にあたる。きつく抱きしめられ、触れられたところからも凌也の気持ちが伝わってくるようだ。

「……俺には、少しくらい我が侭を言ってくれ。誰の言いなりになることもない。たまには人に甘えろ」

きゅう、と心を掴まれたような台詞に、かりんは知らず知らずのうちに凌也の背に手をまわす。

「気を遣われると……かえって不安になる」

「ふ、あん……?」

凌也の口からは絶対に出てこないと思っていた言葉を耳にして、かりんは目を見開いた。凌也は少し体を離し、訝しげに問いかける。

「俺が不安になるのはおかしいか」

「えっ、えと……意外だな、って」

自信があるタイプにも見えないけれど、凌也は恋愛に関してそういった感情が薄いほうだと思っていたのだ。かりんが感じていた不安だとか緊張だとか、そんな心の動きはきっとないだろうと。
凌也は目を伏せて口を開いた。

「お前が別の誰かに我が侭を言うのは……何だか嫌だ」

「えっ、い、嫌って………。でも、僕も嫌です…」

凌也が誰かにあれこれと頼んでいたら、自分では役に立てないのかと落ち込むに違いない。ぺたりと凌也の胸に頬をあてれば、両腕で抱き返された。

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