その夜。
何度となく自分の口と皿を往復する箸を見つめ、遥はぼそりと呟く。

「何なんだ。さっきから」

「ん? あっほらほら、こっちもあーん」

こんがりといい色がついた唐揚げをまた箸が運んでくる。無視もできず、遥は仕方なく口を開けた。

「で? 何が気になるの?」

至極機嫌良さそうに、厚揚げの煮物を一口サイズに切り分けつつ湊が尋ねる。食卓には無論、遥の好物がこれでもかというほど並べられていた。

「……飯くらいひとりで食える」

一応自分の箸は手にしているが、そんなのはむしろ必要ないくらい、湊の箸だけが忙しなく動いている。次の言葉を紡ごうとした矢先、切り終えた厚揚げが視界の中央を陣取った。遥は小さくため息をつき、味のしみたそれを口に含む。

「ひとりで食べられるのは知ってるけどさ。それを敢えて俺が食べさせるのが楽しいんじゃん」

「……楽しくない」

親からえさを与えられなければ死んでしまうような雛鳥ではない。なのに何故、いちいち口元まで律儀に食べ物を持ってくるのか。こんなこと、いつもなら機嫌が良くてもあまりしない。あってもせいぜい一、二回か。いったいどうしたのかと訝しむ遥をよそに、そういえば、と湊は手を止めた。

「ルシにストラップ直してもらったのか?」

「はっ?」

予想外の問いかけに、思わず遥の声が裏返る。湊はくすっと微笑んだ。

「な、何で知って……」

「俺は何でも知ってるの」

湊が気づくのは、直されたストラップを目にしてからだろうと思っていたのに。遥の携帯はポケットに入れたままだが、何故わかったのか。

「最近、俺にバレないように一生懸命携帯隠してたから。鶴見先輩とメールでもしてるのかと思ったけど、名前も知らなかったみたいだし違ったかなって。で、ルシに話したら教えてくれた」

まぁ気づかれたらいずれ話すつもりではあったし、佳奈子が説明してくれたのならよかった。しかし、

「何でそこに鶴見先輩が出──」

「はいはいはいもういいの」

「んっ」

言葉を止めるために湊の唇でちゅっと軽く塞がれ、遥は驚きに目をみはる。食事中なので触れるだけのものだったが、遥の声を呑み込ませるには十分だった。

「せっかく俺といるんだから、他の男の名前なんて呼ばないで。な?」

「な、何言って……」

めったに見せない勝ち気な笑みに、どくりと心臓が跳ねる。湊の独占欲は強いほうだと思うが、名前も出すなとまで束縛されたことはない。束縛、と聞くと自由を奪われたようなイメージがあるからか、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。それは苦痛ではなく、どこか甘くて、疼くような痛みだった。

(こんなの……おかしい)

独占欲を剥き出しにされることが嬉しいだなんて馬鹿げている。そう思っても、湊が次に何を言うのか、何をするのかに期待してしまう自分がいた。そんな考えを打ち消すようにかぶりを振れば、すっぽりと腕の中に閉じ込められる。

「他の人になんか絶対渡さない」

(い、た……)

きゅ、と胸の痛みが強くなる。体だけでなく心も抱きしめられている、そんな感覚だった。

「ストラップ──ね、凄い嬉しかったんだ。直してでも付けたいって、思ってくれたんだろ?」

耳元でそっと囁かれ、かあぁっと頬が赤く染まる。違う、といつもなら反論するのだが、何故か声にはならなかった。それを肯定とみなした湊は、驚きつつも抱く力を強める。

「……あんまりかわいいと困るな。明日──平日なのに」

平日は極力触れないこと。これは同居するようになってから、遥が幾度となく口にしてきた決まりだった。しかしたまに──たいていこんな時に、その決まりを遥自身が後悔することもよくある。

「もうテスト期間だし……ちょっと寂しいけど我慢しなきゃな」

カレンダーを横目に、湊はゆっくりと遥の体を離した。遠ざかる温もりに思わず手を伸ばしかけ、遥は慌ててその手を引っ込める。気を抜けばすぐにでも溢れてしまいそうで、ぎゅ、と手を握りしめて堪えた。

「風呂に水入れてくるから」

湊がそう言ってリビングを出て行った途端に、遥はソファの座面に倒れ込む。どうにかなりそうなほど、体が熱かった。

(何で……こんな、…)

湊が離れていったあの瞬間。嫌だとか、離れるなだとか。そんな言葉が出かかったのならまだよかった。なのに頭の中で響いていたのは、足りない、という我が侭で。
(そんな……浅ましくねだったり、しない……のに)

キスや抱きしめられることだけではもう満たされない。ずくずくと体の奥が欲してくるのは甘い熱と快楽。思い出すだけでもおかしくなりそうだ。

(だめだ……こんなの…)

せり上がる気持ちをどうにか抑えこみ、遥は深く息をつく。きゅ、とまた胸が痛んだ気がした。



「あ」

ある日、湊と二人で学食を訪れていた時だった。テスト期間なので食事ついでに勉強しようとノート類を広げており、湊はたまたま席を外していた。
肩をぽんと叩かれ、振り向いた遥は驚く。にっこりと笑いかけていたのは鶴見だった。

「こんにちは。勉強? そろそろテストだよね」

「はい……」

湊が戻ってくるまでに鶴見を追い返さなければ。そう思っても、年上を邪険に扱うような言い方はできない。困る遥をよそに、鶴見の目はテーブルの上に注がれていた。

「よかった。それ、直せたみたいで」

筆箱の隣にあった遥の携帯には、佳奈子が修理してくれたストラップが付けてある。遥はこくりと頷いた。

「君、名前は?」

「桜井……遥です…」

そういえばこの前は、鶴見が名乗っただけで名前を告げることはなかった。名字を言った時より少し小さな声で名前のほうを言えば、鶴見はゆっくりと笑みを深くした。

「何かご用ですか」

席に戻ってきた湊が静かに尋ねる。今にも食ってかかりそうな機嫌の悪さに、遥ははらはらしながら湊を見つめた。鶴見は笑顔を崩さないまま、しかし対峙するように挑戦的な視線を向けた。

「見かけたから声をかけただけだよ。そうだ、君の名前は?」

「小宮湊。遥の恋人ですが何か」

愛想もなくさらりと言ってのけた湊に、遥は慌てて口を開く。

「ちょっ……!」

鶴見はともかく、周りに聞かれたらどうする気なのか。ここは人が多く集まる学食なのにだ。

「ああ、やっぱりそうなんだ。こんなにかわいらしい恋人だと、さぞ心配だろうねぇ」

全く気にした様子もなく、鶴見はくすくすと笑うばかり。湊は小さくため息をついた。

「ええ。ですから遥には近づかないでもらえますか」

「それは約束できないな」

二人の静かな攻防を見つめ、どうしていいかもわからない遥は黙っているしかない。ねぇ、と鶴見は不意に遥へ尋ねた。

↑main
×
- ナノ -