一心不乱に遥は夜の道を走っていた。どこへ行けばいいのかもわからないが、とにかく衝動のままに足を動かす。やがて街灯の多い住宅街へ差し掛かり、遥は足を止めた。 この辺りに、何か用があるわけではない。単にスタミナが切れただけである。まだ一キロも走ってはいないだろうが、日頃の運動不足は否めない。仕方なくゆっくり歩くことにする。 「暑……」 季節は夏、いくら夜といってもそう簡単に気温は下がらない。天気予報でも、まもなく熱帯夜になると聞いた覚えがある。額の汗を拭い、涼を求めて近くにあったコンビニエンスストアの自動ドアをくぐった。 「……あ、いらっしゃいませ」 夜十時となればさすがに客は多くない。店員の若い女性はちらりと遥を見たが、興味なさそうにまた手元の雑誌へ目を落とした。 ようやく整ってきた呼吸で小さくため息をついてやり、何を買うわけでもなく店内をぶらつく。ポケットには小銭のひとつも入ってはいない。幸い、携帯だけは出がけに握りしめてきた。 「……来てないか…」 未だ初期設定のままのディスプレイ表示を眺め、遥は肩をすくめる。着信どころかメールの一件もないのだから、やはり怒ってしまったのだろうかと。 「君、K大生?」 不意に背後から声をかけられ、遥はゆっくりと振り向く。友人の中で一番背の高い守山よりも、更に上からの目線に驚いた。 「はい……」 整った顔に優しそうな笑みを浮かべ、そうかと彼は頷く。女性の理想全てを兼ね備えたような彼は、落ち着いた外見と雰囲気からして学生ではないだろう。ではいったい、何故自分に声をかけたのか。遥の訝しげな表情を見て、彼は急いで付け足した。 「ああ、いきなり声をかけたんじゃ怪しいよね。僕はK大の院生なんだ」 なるほど院生か、と遥は納得する。学生にしてはやけに大人びていると思った。院生なら年は最低でも二十三、遥より三つは上だ。もっとも、彼は二十三と言われてもまだ若い気がした。 「この辺はK大生が多いから、君もそうかなと思っただけだよ。それより、これ」 彼が手のひらを開くと、赤い紐が切れてしまったストラップが乗っている。それを見るなり、遥は慌てて自らの携帯を確認した。ストラップを引っ掛ける部分には、やはり赤い紐の残骸が虚しくくっついている。 「よかった。君のか」 「あの、これをどこで……?」 取り付けようにも、紐が切れてしまったのでは仕方ない。携帯とストラップをポケットに入れ、遥は尋ねた。 「さっき、君が走ってるのが見えたんだ。そのままここに来ただろう? ここの入り口あたりにそれが落ちてたから、もしかしたら君のかと思って」 走っていた時にストラップが揺れ、紐が擦り切れてしまったらしい。ともかく発見に至ったのならひと安心だ。 「ありがとう…ございました」 他人に礼を告げるのは慣れていないものの、年上相手にはいそうですかとは言えない。小さく頭を下げた遥に、彼は優しく尋ねた。 「大事なものだったんだね。それにしても、こんな時間にどうしたの? 買い忘れたものでもあった?」 いいえ、と遥は首を振る。事情を話すべきか迷ったが、ストラップの件もあるし黙ったままでは無礼だろうか。 「その……友達とケンカして…」 「そうなんだ。それで、飛び出して来ちゃったのかな?」 みなまで言わずとも伝わってくれたことに感謝し、こくりと遥は頷いてみせる。 「君はどう? 自分が悪かったかな、って思う?」 それにも再度、遥は小さく頭を振り、ちりちりと胸が痛み始めた。 湊とのケンカの発端はほんの小さなことで。今日は暑いせいか遥は苛々していて、湊が"明日バイトなんだ、ごめん"と言い出したことからだった。 明日の夕方は、一緒に夕飯の買い物へ行こうと約束していたのに。別に遥は買い物に行きたかったわけでなく、ここのところ忙しくてろくに二人きりの時間を過ごせなかったことを埋めようとの思いだったのだ。おそらくは湊もそういうつもりで約束を取り付けたのだと思う。買い物なんて、いつもは湊が勝手にしていることだ。わざわざ二人で行きたいと言うならその理由も察せる。それを簡単に"バイト"の一言で踏みにじられたことが遥は頭にきた。いつもならまぁしぶしぶ許してやれたのに、機嫌の悪いところにいきなりそう告げられ、つい堪忍袋の尾がぷつんと切れてしまった。約五分の言い合いの末、もういい、と家を飛び出し冒頭に至る。 「きっとお友達も今頃心配してるよ」 なだめるように彼が言うと、ポケットに突っ込んでいた携帯がふるふると振動する。サブディスプレイの表示には着信の文字があった。 「あ、ちょっとすみません…」 一言断ってから遥はコンビニの外に駆けていき、携帯を耳にあてる。どくどくと心臓が跳ねた。 「何だ」 つっけんどんな物言いに、電話の奥からおずおずと尋ねてくる声が聞こえた。 『まだ、怒ってる?』 「別に……」 自分の中では一応反省はしていたが、いざ謝ろうとすると声にならない。どう言ったものかと言葉を濁すと、湊のほうから申し訳なさそうに告げてきた。 『ごめん。いきなりあんなこと言われたら怒るよな』 「え、あ……」 おそらく比率にすれば九対一で自分が悪いはずなのに、湊はそれでも先に折れてくれた。遥が二の句を告げない間に、湊は続ける。 『今、どこにいるんだ? 許してくれるなら、帰ってきてほしいんだけど…』 許すも何も、湊に責任があるなんて最初から思っていないのだ。うっすらと罪悪感を覚えつつ、遥はきょろきょろと周りを見渡した。 「……わからない」 『え?』 勢いで飛び出してきたせいで、ここがどこなのか見当もつかない。暗いことも相まって、目印といってもこのコンビニくらいしか目につかない。 「とりあえず…コンビニにいる」 『周りに町の名前とか番地とか書いてない?』 湊に促され、住宅地のほうに歩いていく。幸い街灯が多いおかげで、町名と番地の書かれた札が電柱に貼ってあったのを見つけた。 「あざみ町の三番地」 『あざみっていうとかりんくん家のほうだな。三番地……ああ、あのセブンか』 湊も土地勘があったらしく、遥のいるコンビニを特定することができた。 『わかった、迎え行くから待ってて。もう夜だから危ないし、ちゃんとコンビニの中にいるんだぞ』 ん、と小さく遥が返事をするとすぐに電話が切れる。遥が走っても五分強だったのだ、湊なら三分あれば余裕だろう。かりんの家なら遥も訪れたことはあるが、一度きりであったし、道を覚えるのは得意ではなかった。 コンビニの中に戻り、待たせていた彼を探す。店員はもう挨拶さえしなくなっていた。 ↑main ×
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