:: 海に許されてみたくて
2013.09.14 (Sat) 19:42

・湊がちょっと疲れてます
・遥視点


ある日。バイトから帰ってきたあいつは夕飯さえ食べずに寝ていた。寝ることをめったに優先しない奴にしては珍しいと思ったら、起き出してきたあいつは疲れた顔でにっこり笑った。

「海に行こう?」

あまりに突然すぎる提案。時刻は七時に近い。いくら夏でもそこそこ暗くなっている。そして何故海。

「ほら、行こっ」

夕飯の片づけも放ったまま、ぐいぐい手を引かれて家を出る。

「待てっ、いきなり……なんで…」

近くのバス停まで来ても手は離れず、時刻表を覗き込んで笑顔を見せる始末。

「よかった、バスもうすぐ来るよ」

「そういう問題じゃないだろ…」

もはや何がしたいのかさっぱりわからない。何度か訊いて何度かはぐらかされた間にバスは到着し、腕を引かれるまま乗り込んだ。


海にほど近いバス停で降りると、外は本格的に暗くなっていた。当たり前だが海には見渡す限り誰もいない。

「着いたなー。よいしょ」

防波堤と言っていいのか、すぐ先に砂浜があるコンクリートの段に腰を下ろして脚を揺らす奴。結局ここに来た目的はわからずじまいだ。

「遥もおいでよ。波の音が聞こえるから」

こいつが隣を叩くとコンクリートの鈍い音がした。仕方なく座って同じように脚をぶらぶらさせていると、なんとはなしに手を握られる。

「……おい」

「大丈夫、人いないし。……お願い」

付け加えた一言が妙にしんみりとしていて、断るタイミングを逃してしまった。
カモメの大群が砂浜の上空で舞っている。波は比較的穏やかで、夏の夜の涼しい風を潮と共に運んできた。

こういうのも悪くはない。ただ、何かがおかしい。
じっと海を見つめてばかりで、ちっとも話そうとしないこいつが。

「……何かあったのか」

尋ねると、少しはっとしたように目を見開く。けれど次の瞬間には、また曖昧な笑顔に戻ってしまった。

「何でもないよ。……すぐ帰るから」

「……別に…急かしてるわけじゃない」

暗にゆっくりしてもいいと言ってみると、握られている手に少し力がこめられたのがわかった。



『ごめんね。怖くなっちゃった』

今は安心したように隣で眠りについている顔を眺めながら、海から帰ってくるなり告げられた言葉を思い出していた。玄関のドアが閉まると同時に抱きしめてきた腕は、柄にもなく小さく震えていて。

『夢を見たんだ。遥がどこかに攫われちゃう──もう、俺のところには一生戻ってこない夢。夢の中の俺はね、遥を追いかけてあげられなかった。足が、動かなかったんだ』

苦しそうなあいつに、どう言葉を返していいのかわからなかった。疲れているせいだと、諭すのが精一杯で。

『なぁ……嘘でもいいよ。今だけでいいから──どこにも行かないって、約束してくれるか?』

差し出された小指に自分の小指を絡めて頷くと、ふっと安堵したように笑って眠ってしまった。疲労の色を残しているものの、寝顔はすっかり穏やかなものになった。

「俺は……どこにも行かない」

絡んだ小指に目を落とす。何も、中途半端な覚悟でこんな約束をしたわけじゃない。今だけでいいなんて、そんな都合のいい嘘はこっちから願い下げだ。

だから、今はせめて。

「……お休み」

隣に寝転んで、そっと目を閉じる。繋いだ小指から、ゆっくりとした鼓動が伝わってくる気がした。
目が覚めたらきっと、いつも通りのうるさくてしつこい奴に戻っている。そしてまた、飽きるくらい俺に好きだと言うんだろう。その幸せが、いつまでも続くことを信じて。


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