:: たべもの2話
2018.10.04 (Thu) 22:30

・39℃の旨み

ぽちゃん、と湯面に吸い込まれる雫。温まった息をほうっと吐いて、浴槽の縁に頭をもたれさせる。
そろそろ上がろうか。いや、もう少し。どうせまだあいつもキッチンで片づけやら明日の支度やらに勤しんでいるはずだ。たらりと頬を伝う汗を濡れた手で拭い、遥は目をつむった。数秒も経たないうちに、トントンとドアの磨硝子がノックされる。

「大丈夫かー?」

「………」

開いたドアの隙間へ湯気が流れ込む。そこからひょこりと顔を突き出した恋人を、遥は薄目で睨み付けた。一糸纏わぬ恋人の意思を容易く汲み取った湊はわざとらしくかぶりを振る。

「違うって、別に覗きに来たわけじゃないし。もう四十分も上がってこないから、なんかあったのかと思って…」

「………」

言いたいことはわかっているようなので、そういうことにしておいてやろう。遥はひとつ頷いて再び温い湯の中を揺蕩う。
と、何故か湊はぽいぽいと靴下だけをカゴに放り、濡れたタイルをぴたぴたと踏みしめて浴槽の横まで来た。伸ばしていた手足を、遥はさっと曲げて体を丸める。入浴剤も入れていないので湯は透明だ。今更見られてもどうということはないが、こちらだけ裸なのはさすがに恥ずかしい。

「ちょっ、やめっ」

「うるさい。さっさと出てけ」

手のスナップを効かせて湯を引っ掛けてやる。びしゃり、とジーンズの膝から下を思いきり濡らすと、湊はぴょいと飛び退いた。ひとの入浴中にずかずか踏み入ってきて、何がしたいんだこいつは。

「うー、冷たい」

生地を軽く絞り、湊はくるくると足首から裾を捲る。きゅっと締まった踝、程よく筋肉のついたふくら脛。お洒落でハーフパンツを身につける男性は山ほどみたが、こういう脚のほうがやはり似合うのだろう。ファッションセンスのファの字もない自分でさえ思うのだからきっとそうだ。というかこいつはどんなものでもそれなりに様になる。そういう奴だ。そうそう、とひとり納得していると、不意に彼がじっとこちらを見つめていることに気づき狼狽える。

「どうかした?」

「…別に」

たかだか脚くらいでどこまで想像を広げているのだろう。自分が裸であることも相まって、じわじわと羞恥が込み上げてきた。こいつがどんな服を着ようと自分には関係ない話だ。ふいっと顔を背ければ、洗い立ての髪をひとすじ、指に巻き付けて遊んでいる。鬱陶しい。

「出て行け」

「やだ」

「もう…上がる」

「そう?」

嬉しそうな声。だから早く出てけと再度促せば、んー、と少し考えて湊が口を開いた。

「――遥、鰤好きだよな?」

「………は?」

温かさに感けていたせいではない。質問の意図がまるでわからなかったのだ。鰤。ぶりってあれか、魚の。何で風呂で、今このタイミングでそれを持ち出してきたのか、遥は何度か瞬きしてしまった。湊は続ける。

「鰤だよ、冬の脂の乗ったやつなんて最高じゃん。照り焼き塩焼き刺身寿司。何でもありだよ」

「………」

「俺は食べたことないんだけど、鰤しゃぶってめっちゃうまいらしいじゃん。刺身でもいけるような新鮮なやつをしゃぶしゃぶにするんだよ。もったいないけど食べてみたくない?」

「………」

食べたい。
相も変わらず脈絡は掴めないままだが、食べたいか食べたくないかで言えば当然食べたい。だって鰤だもの。問いかけられるままに遥は頷く。
だよな、と笑いかけた恋人は遥の手を持ち上げ、湯に浸かりきりでふやけた指先へキスを落とした。

「誰だって、好物が目の前でしゃぶしゃぶになってたら食べたいに決まってるよな」


・相互的ランチタイム

四時限目終了のチャイムが鳴る。遥はほっと息を吐いて、両手で持っていた国語の教科書を机に置く。気もそぞろに起立礼着席をすれば、あっという間に教室はざわめきに包まれる。待ちに待った昼休み。皆も生き生きと鞄を漁り始める。遥も鞄の底から包みを探り当て、平行を保ったまま机に乗せた。巾着の紐をほどいていると、前席から椅子をそのままに、くるりと体だけ向きを変えて当然のように弁当包みを隣へ置いてくる。

「勝手に置くな」

顔をしかめて見せても、目の前の男は子供らしく、悪戯っぽく笑った表情のまま。こんなことが入学当初から続いていると、さすがの遥も折れないわけにはいかなかった。
こいつは自分に罵られながら弁当を味わいたいらしい。とんでもない物好きである。もう遥の手には負えない。
気を取り直して、自分の弁当だけに集中しようと蓋を開ける。成長期にしては量が少なめだが、彩り豊かなおかずと五目稲荷が現れると、改めて腹の虫を意識させられる。

「え、すげー!おいなりさんじゃん!」

箱に詰まった好物へテンション上げたのも束の間、前方から他人の弁当を覗き込み、あまつさえ感嘆まで大声で吐き出していく男。絶対今ので唾液入った。さらに睨み付けて、遥は黙々と箸を進める。

「お前んちの弁当って凝ってるよなー。あのおばあちゃんが作ってんだろ?それとも姉ちゃん?」

「………」

「へー、やっぱおばあちゃんか」

「……」

何故わかった。
瀕死の表情筋からまだ読み取れるものがあるのか、あーお前卵焼き好きなの、ふーん、と大人の拳くらいあるおにぎりにかぶり付きながら自称友人が物申す。

――こいつは苦手だ。
いつも思う。初対面で喧嘩して、いろいろあって殴ってやって、さぁこれでほっといてくれるだろうと思いきや、妙なお節介を焼かれて、毎日欠かさず声をかけてきて、そんな日常も悪くないかな、いややっぱり邪魔だ、とせっかく思い直しているのに。
会話なんか求めないでほしい。だって話せない。何を喋ればいいかもわからないし、こいつを喜ばせたいとも思えない。そんな自分といたってつまらないのだから、他のクラスメイトのところに行ってくれと何度も思って、何度も命令しているのに、一向に聞き入れてくれなくて。
こいつは本当に、一方的なランチタイムの何が楽しいのだろう。遥は頭を抱えるほかない。
湊がまた口を開く。

「弁当っていいよな。給食もうまかったけど、誰かが作ってくれるのって嬉しくない?」

「……別に」

いかん、応えてしまった。
沈黙を貫いていた遥ははっと我に返るが、湊は特に表情も変えず頷くだけ。

「そういうもん?自分で作ると味気ないぞ。給食が時々休みで弁当の日があったじゃん?昔、低学年の時、うち親が忙しいから作る暇なくて、ご飯詰めてふりかけやって、卵焼きだけてきとーに作って持ってったことがあって――」

「は?」

「え?」

「!……何でもない」

卵焼き。作れるのか、こいつ。しかも低学年とか言ってなかったか。自慢じゃないが、未だに遥は生卵を割ることさえできない。驚きついでにまた反応してしまったのが悔しい。

「で…そしたら担任の先生が『ご飯と卵だけなの?』とか面倒なこと言い出してさ。子供心ながらになんかまずいなぁと思って、お弁当って言うの忘れてて、お母さん慌てて作ったんですー、って言い訳したの覚えてるんだ。中身なんか別にいいじゃん、作ってくれればそれで、って俺は思うけど」

豪快に乗っかった焼肉を、ばくり、とご飯ごと口に収めて湊はいったん咀嚼に入る。再び訪れる沈黙。遥は少しだけ安心して、こちらも稲荷を口に運ぶ。酢が程よく効いていた。
それにしても。こいつは何でもうまそうに食べる。好き嫌いとかないんだろうかと、中学生らしい食べっぷりを眺めて遥は思う。思ってから、知らず知らず湊のペースに乗せられていたことを再び恥じる。
端に鎮座したブロッコリーの処理に悩んでいると、ひょいと緑のそいつをかっさらっていく他人の箸。

「残すなよ。作った人がかわいそうだろ」

ぽかんとする遥をよそに、もぐもぐと噛み砕かれていくブロッコリー。嫌だ。あんなキノコみたいな形の緑のもしゃもしゃなんか食べたくない。と、いつの間に心を読まれていたのか。当の本人は難なく飲み込み、おかか和えにするとうまいよ、などと要らぬアドバイスを向けてくる。うるさい。お前なんかブロッコリーより嫌いだ。


数年後。
チャイム代わりのブザーが鳴った講義室で、遥はシャープペンを置いて凝った首を回す。午後の試験は昼休みを挟んで、同じ教室で行われる予定だ。昼休みがたっぷり一時間取れる。
荷物から包みを取り出して、その隙間にテキスト類を押し込む。空腹時の集中力といったら本当に使い物にならない。宇宙飛行士だか自衛隊だかの試験に空腹耐久があったような噂を聞いたが、この苛々を味わうくらいなら落選で結構。ペンギン柄の小風呂敷を開きながら思う。
小さめの鶏五目おにぎり、唐揚げ、卵焼き、よくわからないが里芋の煮たやつ、と好物が隙間なく並ぶ中、彩りにいいからと、プチトマトとブロッコリーが添えられている。嫌いだと何度も言っているのに、必ず忍ばせてくる緑のもしゃもしゃ。最初に食べてしまったほうが楽なので、我慢して口に収める。鰹節で青臭さが緩和され、食感も良くはなっている、確かに。でも嫌いだ。うるさいから、仕方なく食べてやるだけで。
畳んだペンギン風呂敷から紙が飛び出している。これも毎度のことだ。小さく折り畳まれた紙を開く。

『しっかり食べて、テスト頑張ってね』

たとえ向き合って食べていても、こんなのは一方的だと思い込んでいた時代。離れていながらも孤独でない食事があるのだと知ったら、瀕死の表情筋も少しは動くだろうか。


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