:: スキ/キライ 2018.09.03 (Mon) 22:56 ・湊視点 ・少し疲れた遥の話 帰ったら遥が泣いていた。 「どうしたの?」 ソファにうずくまるようにして、ひっくひっくと何度もしゃくりあげる恋人。眼鏡は床に放られてる。机なんかもっとひどい。参考書も教科書もページが折れたまま閉じられてて、綺麗な数字が並んだノートなんてびりびりで。只事じゃないみたいだ、と一瞬にして察した俺は、屈み込んでそっと背中を撫でた。震える体を抱き締めて、ぐしゃぐしゃの顔にハンカチを当ててやる。俺が帰ってきたことにもやっと気づいたのか、ソファを離れて俺の胸にぎゅうと頬を押し付けてきた。まだ喋れないか。落ち着くまでしばらくこうしていよう。 「……きらいに、なった」 「ん?」 啜り泣く声が段々と収まって、涙を拭うくらいになった頃、遥は涙混じりの声で呟いた。何言ってるの、遥を嫌いになんかなってないよ。そう言って宥めたらぶんぶんとかぶりを振られた。 「ちがぅ……数学、が…」 「……え?」 眦に雫を浮かべて訴える遥と、やや目を見開いた俺。 「数学……嫌いになっちゃったの?」 遥は困ったように下を向いて、やがて小さく頷いた。 ◆◇◆ その夜。 食欲もあまりなかったみたいだけど、食べないのはよくない。少しだけでもいいからと促して、うどんを半玉啜らせた。俺が片づけをしてる間、遥はテレビをぼうっと見つめていた。教育テレビでいつも楽しみにしてる数学 の番組が始まると、リモコンを取って電源をオフにしてしまった。ぐすっ、と膝を抱えてまた泣き始める姿が見ていられなくて、でも何とかしてやりたくて。 「今日は風呂入って寝よう?眠くなかったら、俺のお喋りに付き合って?ね?」 すん、と鼻をすすって、遥は俺の手を取ってくれた。 遥の好きな、温めの風呂にゆっくりと浸かった。顔も体も濡れて、泣いても気にならなくなったのか、少し安心した様子で背中を預けてきた。擦るから、目が真っ赤に充血してる。洗った髪をよしよし、と梳いて撫でて、とにかく優しくした。生まれたてのヒヨコを扱うくらい大切にした。 ふにゃ、とリラックスしたところでバスタオルにくるんで、寝間着を着せて、涼しい部屋でほっとレモンを飲ませて。この頃には涙も引っ込んでくれたから、この前旅行で買ったペンギンのぬいぐるみを遥の胸にくっつけてぐりぐりする。 「ねぇはるちゃん、ぼくとあそんでよお」 「……ばか」 ふ、と一瞬だけ笑って、遥はぽんとペンギンを叩いた。よかった、ちょっと元気になってくれた。 秋になりかけたとはいえ、まだエアコンが欲しい季節。そしてエアコンだけじゃ涼しすぎるから人肌も欲しい季節。ぎゅっと抱き合ったまま、敷いた布団にふたりで沈んでいく。柔らかい。あったかい。同じシャンプーの匂いがする。 「……俺もあるよ」 「ん…?」 「昔。本が嫌いになったの」 深刻すぎない声で、ゆっくりと語っていく。遥は腕枕をされながら、目をつむって聞いていた。 「8歳くらいだったかな。学校の図書室が新しくなったんだ。ふかふかの椅子…ほら、デパートの子供の遊び場にある仕切りみたいな、細長いやつ。丸い椅子もあって、本棚も木の古いやつじゃなくてぴかぴかで、天井まであって、二段くらいの脚立登って取れるようになってて。本も三倍くらいに増えてたよ。司書さんもいた。俺は正直そこまで本好きじゃなかったんだけど、何これ楽しそう、と思って行ったらいろいろ読めて、好きになったんだ。休憩時間になる度に行ってた。 でもね。それまではずっと、クラスの友達とサッカーして過ごしてたんだ。そしたらある日、お前なんかもう遊ばない、いらないって友達みんなから一方的に言われちゃってさ。確かに俺は図書室ばっかり行ってたけど、ずっと入り浸る気はなくて、サッカーもそのうち復帰したいと思ってた矢先で。何だよ、仲間はずれにされたのこいつのせいじゃんって本を逆恨みして、図書室にも近づかなくなったんだ」 「……」 「俺の話、わかりにくい?」 「…薄情だな」 「友達が?」 「ん」 「サッカーって結構人数要るからなぁ。俺の他にも抜けた子がいて大変だったのかも。人数少ないと、ドッジボールとか野球に場所取られるんだよ、お前らはあっち行けって」 「休憩中…何してたんだ」 「新境地を開拓しようと思って。遊びはサッカーだけじゃないし、どうせならまだやったことないものにしようって、竹馬始めたの」 「竹馬…」 「え、知らない?あれだよ、足場のついた棒の…」 「それくらい知ってる」 「あ、そう。凄い子だと一メートルくらいのやつに乗ってたじゃん。俺もあれ目指したいなって、その子に声かけてノウハウを教わってさ。これが竹馬之友だよ」 「は……?」 「あ、いや…何でも。で、竹馬が上達した頃、俺が図書室の話をしたら、新しくなったって知らなくてさ、その子。昆虫好きだって言うから、図鑑コーナーに案内したの。ほんとはあんまり図書室に近づきたくなかったんだけど。そしたら凄く喜んでくれて、言われなきゃこんなの知らなかった、ありがとってお礼まで言ってくれた。お、これは案外いいぞ、と思った」 「何が」 「本もそうだし、現代でもブログとかツイッターとか読む人ってさ、みんな自分の知りたいことを知るために読んでるんだよ。だから、その知りたいことを聞いて、これがお勧めですよ、っていう役が合ってるんじゃないかと思ったんだ」 「……わかっ、た」 「え」 「サッカーの本…借りて見せたんだろ」 「すごい!さすが遥」 「そんなの…聞いてればわかる」 「探求心が湧いてこないなら、知らないことを調べる役から、知ってることをみんなに教える役に回ろうかって考えたんだよね。まずはその人の好きなことを聞いて、それに関する本を勧めてみる。その人の特性にもよるよ。文字ずらずら並んでる本とか無理!って人もいるじゃん。写真よりイラストが好き、って人もいる。自分のことがよくわからないって子には、誕生日占いの本とか、少し大人が読むような小説を勧めたり。そうするとそんなに仲良くなかった子のこともわかってきて、喜ばれて、自分もなんだか得した気分になって、嬉しかったんだ」 「…お前には、向いてる」 「うん、そう思う。今でも、初対面だとよく好きな食べ物訊くんだ。で、もし仲良くなれたらこれ作ったら喜んでくれるかな、って考える。ほんとにそうならなくてもいいよ、考えるのが楽しいから。で…しばらくしてから、気づいたんだ。そのきっかけを教えてくれたのは本なんだよね。本で読んだことも役に立つし、もっと関わって詳しくなればそういう手助けもできる。だから、もう一回好きになってみてもいいのかなって」 「……」 「きっかけの有無は実際関係なくて、時々嫌いになっちゃうことって何でもあるんだよ。どんなに好きでも、今日は何がなんでも料理したくない!本読みたくない!ああぁあ!って日があっても全然おかしくない。遥だってそうだろ?俺の顔も見たくない日、ほんとにたまーにならあるだろ?」 「……別にそこまで好きじゃ…」 「えっ…」 「!な、泣くな…」 「そっか…」 「ち、違う!き、らいになんか……」 「ならない?」 「………年に…一回、くらいは」 「うん、あるよな。嫌い!まではいかないけど、なくはないんだよ、確かに。だって、そういう日がないとほんとに好きかわかんなくなるじゃん」 「…?」 「この世に存在するお金が全部偽札なら、それはもう本物。ずーっと好きなら、それは特に好きじゃないってことにならない?ほんの少し、嫌いっていう気持ちがあるから、この人は特別なんだって思えるんじゃないかな。嫌いな人だって、ほんのちょっぴり好きっていうか、気になるところはあるんだよ、きっと。今の遥みたいに」 「すき……?」 「数学が嫌いになっちゃった、って遥はずっと泣いてただろ。『嫌いになったのが悲しい』ってことは、ほんとは大好きなんだよ」 違う?と前髪を優しく掻き上げて尋ねる。仄かな暗がりの中で、ゆっくりとその瞳が潤んでいくのが見えた。 「好き…なのか」 「そう。だってほんとに嫌いだったら落ち込んだりしないよ。あーさっぱりした!って教科書捨ててもいいくらいだし。まだたくさん未練があって、また好きになりたいって思ってるから悲しいんだ。 遥は本当に、本当に嫌いなの? もう、方程式なんて解きたくない? 微分も積分もどうでもいい? 公式の美しさも感じない? そうですって即答できないなら、大丈夫。自信持って、足し算でも掛け算でも思い出してみなよ」 ぎゅっ、と苦しいくらいに俺にしがみついて、また遥はぼろぼろ泣いた。苦しいなら泣けばいい。心の靄を全部吐き出したら、本当に望むものが見えてくるよ。 「急いじゃだめだよ。俺はね、竹馬始めてからまた本を読み始めるまで、一か月はかかったから。遥の情熱なら明日でも驚かないけど、自然にそうなるのを待ったほうがいい」 泣き疲れて眠った遥は、翌日丁寧に教科書類を片づけた。折れたページを直して、シャーペンの芯も補充して。その時が来たら、すぐ勉強できるようにと準備を整えていた。横顔は思ったよりすっきりしていた。 ◆◇◆ 数日後。 ノートを新しく買いに行きたいというので夕飯の買い物ついでにスーパーへ行った。遥はcampusの五冊入ったものを抱えてきた。 俺は肉のコーナーで鶏肉を見ていた。元気が出るように、唐揚げにしようとパックを手に取る。ひょいと、別のコーナーにあった特選品も眺めた。こっちのほうがうまそうだな。でも高い…ん?高いのか? 交互に見比べる俺を不審に思ったのか、遥も特選コーナーを覗き見、指差して言った。 「2割引ならグラムあたり10円安いだろ。地鶏のほうがうまい…から…」 ふと時間が止まる。 俺も遥も同時に瞳を大きくして、顔を見合わせた。 「――こっちにしよっか。10円安いし、うまいんだろうし。お祝いに、ね」 カゴに地鶏のもも肉を2パック放り込んで、俺は笑いかけた。遥は下を向いたまま、抱えたノートの束をぎゅっとして、しっかりと頷いた。 ↑main ×
|