:: その日のこと2
2017.05.11 (Thu) 22:26

翌日。桜井はちゃんと学校に来た。風邪?そんなことあったっけ?みたいな顔をして。あまりにいつも通りだったから、俺は昨日ほんとに見舞いに行ったのかと一瞬だけ記憶を疑った。

三時間目の体育。種目はバスケで、俺はとても張り切っていた。部活はバレーだけど、それに限らず球技は好きだし、得意でもあった。意気揚々と半袖に着替えて、部活仲間のクラスメイトたちと体育館に向かおうとした。
――そういえば、あいつはどうするんだろ。
不意にドアから教室を振り返れば、わざとらしいほどゆっくりと制服のボタンを外している姿があった。

「湊ー、行こうぜ」
「あー……と、先行ってて。制服にハンカチ忘れてきた」

適当な言い訳をつけて、俺はひとり教室へ戻っていく。ふ、と眼鏡越しに視線がかち合った。

「お前、どうすんの?病み上がりなら見学か?」
「………」

ぷい。
俺は唖然とする。

「おい。訊いてんだから答えろよ」
「…………休む」

かなり間を空けてからようやく返答が届いた。今朝あいさつしたときもそうだけど、今日は随分ともたついている。まぁ、昨日まで熱出してたら仕方ないか。

「寒いのか?」

半袖に腕を通してからベルトのバックルを外す途中で、ふるりと茶髪が振るわれた。すり、と手のひらが生白い腕を雑に擦っている。

「長袖は?」
「………」
「…黙ってたらわかんねーだろ」
「……忘れた」

ちらちらと色素の薄い瞳が揺れる。小さく唇を噛んでうつむく姿は、窓から日が差していてもなお、消えてしまいそうに儚かった。はっとなった俺はぐしぐしと目を擦る。そんなわけあるか。確かに髪も目も肌も柔らかくて薄くて白いけど、こいつは正真正銘男なんだから。

「っ……ほら!」

バッグから紺色の体操着を突き出せば、びくりと華奢な体が強ばった。ほんの少しでも強く押されたら、簡単に壊れてしまいそうな腕を震わせて。

「貸してやる。…安心しろ。日曜に洗濯してから、今週まだ一回も着てねーから」

指まで細いその手をゆっくりと差し出して、驚きながらも俺の服を受け取った。
首元を、柔らかな茶髪がそっと抜けていく。白い手のひらが袖をくぐる。薄っぺらくて頼りない半身を紺色が包む。その光景に、何故か俺は――やってはいけないことをしたような、一種の背徳感を覚えていた。

「っ……」

思わず目を背けたけど、理由はわからない。窓の向こうには、目に痛いほどの爽やかな青空が広がっている。呼び掛けられた声にも一瞬気づかなかった。慌てて振り返る。

「――え、なに?」
「だから……下…も」

半ば袖に覆われた手がひらりと揺れる。胸元に刺繍された自分の名を見て、俺は狼狽えながらバッグをあさった。

「ほら」

たたんだままの形でズボンを引っ張り出す。こっちもちゃんと洗濯済だ。受け取ったそれをいったん机に置いて、桜井は外れかかっていたベルトに手をかけた。細い指が、鈍く光る金具をそっと撫でていく。
はっ、と俺は我に返った。

「も、もう始まりそうだし…先に行ってるから!」

こんなに言い訳がましく、かつ他人行儀な口調を使ったのはこいつに対して久しぶりだった。返事を聞かないうちに、俺は逃げるように教室を飛び出す。廊下を疾走しながら、ばくばくと暴れる心臓を手で押さえた。

今、俺は何を考えた?
何を想像した?
どうして逃げた?

その先を見つけてはいけないと思うのに、焦りに駆られた心は追求をやめない。体育館の入口を目の前にして、俺はきつく握った拳を外壁に打ち付けた。不思議と痛みは感じなかった。

あいつの手が、指が、髪が、頬が――体が、俺の服に触れた瞬間。胸がどきどきしたんだ。友達といやらしい雑誌をこっそり覗いた時みたいな、言い知れぬ期待と興奮。それと同じものを、感じ取ってしまった。俺は。友達に。

「なんで……?」

俺より少しだけ小さな手。
白くて折れそうな細い指。
ふわふわの綿毛みたいな髪。
つるりとした陶器に似た頬。

あいつをつくってるパーツのひとつひとつが、鮮明に目に浮かぶ。触れてもいいかな。触れたら壊れちゃうのかな。
手を包んで、繊細な指を絡めて、甘そうな色の髪を梳いて、冷たい頬を撫でて。つんと上向いた唇もきれいだった。色素のない瞳も、眼鏡で覆っているのがもったいない。薄い胸も、華奢な腰も、全部全部。

「あ……」

始業の鐘が鳴る。
ついさっきまで友人だった彼が、ぱたぱたとこちらへ駆けてくる足音がした。


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