:: Green heart 2017.02.05 (Sun) 20:05 ・中学生の遥視点というか独白。湊が元カノと別れたばかりでぐるぐるしてる時の話。暗い かりかりとペン先の動く音だけが静かな部屋に響いている。ごく真面目に参考書に向き合う湊の横顔をちらと見て、遥は心の内でため息をついた。 彼がこれほど熱心に勉強している様を見たのは、おそらく初めてだろう。珍しいどころの話じゃない。特に試験期間中なら、めんどくさいだの体育がいいだのと愚痴をこぼすのが常だ。遥に一喝されるまで机に向かおうとはしない。 とまぁ、そんな湊少年の不真面目ぶりを横で見続けてきた遥にとって、今の状況は異様ながらも喜ぶべきことなのだが、一概にそうとは言えない。何故なら、これは。 (現実逃避……か) 彼は最近、付き合っていた女子生徒と別れたばかりだった。勉強嫌いはともかく、ルックスを含めた彼の器量の良さは遥だって承知している。女子からの人気が出ないわけがなく、その中のひとりと恋仲になったのがつい二か月前。珍しく断らなかったことを不思議に感じたものの、何か気に入るところがあったのだろうと合点していたのに。 なにぶん注目度が高かったおかげで、破局だの離縁だのと心ない言葉を投げつけられたことは知っていた。特にそれらに傷ついている様子はなかったが、彼女と離れた日から、彼はあまり笑わなくなった。目に見えて塞ぎこんでいるわけではないし、むしろ何事もなかったかのように振る舞っているのだが、ふとした瞬間の悲しげな表情は、見ていて胸が痛くなるようなものだった。 こういう人間をひとりにしてはいけない。それは自分の経験からもよくわかっている。どうせ、ろくでもないことしか考えられない気持ちになっているのだ。 試験勉強をするなら、とやや強引に彼の家に押し掛けたのが約一時間前。湊は今も淡々と問題を解き続けている。甘いものを欲しがることもなく、苦笑いもため息もこぼさずに目の前の作業をこなしている。書いていれば、読んでいれば、何も考えずに済む。そんな感じだった。 「…少し、休憩したらどうだ」 す、と小さく息を吸い込み、長い沈黙を打ち破ってみる。湊もふっと顔を上げたものの、その瞳は澱んだままだ。 「大丈夫。…ほら、俺休憩するとそのままずるずる遊んじゃうし」 わざとらしく言い訳を付け足す際にはさすがに笑みも見せたが、遥にしてみればぎこちないことこの上ない。クラスメイトなら容易く騙せただろう。それとも、遥相手ならそこまで繕う必要もないと湊が思っているだけなのか。 (そんなにつらいことだったのか…?) 小宮くん、と笑顔で手を振っていた彼女の姿を思い起こす。特別可愛らしいというわけではないが、そこそこ勉強もできて愛嬌があったのなら、湊の好みには当てはまっていたのかもしれない。遥にしてみれば、今まで彼に想いを告げてきた女性たちもそんなに変わらない気はするが。 (特別、か…) 湊の心を揺るがす何かを、彼女は持ち合わせていたのだろう。その「何か」の正体を湊は決して口にしないし、おそらくこれからも語らずにいるもりだ。それを知りたいと思うのはきっと自分だけではないのだろうが、傷を抉るような真似はしたくない。 何にせよ、彼女が他の誰にも与えられなかった「湊の隣に立つ」権利を得たことは事実だった。 「あのさ」 控えめな声で我に返った遥は、しばらく動かしていなかったシャープペンをそっとノートへ転がした。 「俺、ちゃんと勉強するから。お前に監視されなくても頑張るし」 別に遥は湊の試験勉強を監督するために来たわけではない。湊もそれは承知の上で、ひとりにしてくれと遠回しに言っているのだ。 だんっ、とテーブルに叩きつけた拳がひどく痛んだ。湊は特に驚きもせず、目線を合わせることもしなかった。 「いい加減にしろ!お前…っ」 心に渦巻くもやもやを何と称していいかわからず、二の句を告げなくなった遥に、湊はあくまで静かに尋ねた。 「なんでそんなに苛ついてるんだ?」 こちらの昂った感情に、文字通り水を差すような一言が放たれた。かっと瞳を見開いた遥が再び怒声を張り上げかけたところで、湊はすぐにかぶりを振って前言を撤回した。 「何でもない。…ごめん」 何がごめんだ、と言い返したくなったが、軽く唇を噛むようにしてうつむいた彼の横顔はあまりに悲痛なもので、遥もぐっと反論を呑み込む。 そもそも遥自身、どうしてこんなにも腹が立つのかわからないのだ。理由どころか、振り上げた拳を誰に下ろせばいいのかさえ決めあぐねている。初めは確かに湊へ向けてのものだった。いつまでも引きずっていないでさっさと前を見ろと、普段の乱暴な言葉を封印してやんわり言うつもりだった。それなのに。 「……帰る」 迷いを断ち切るが如くすっくと立ち上がれば、湊はこちらを一瞥して小さく頷いた。ろくに返事もしない対応に、神経がさらに昂るのを感じた。 荷物を手に部屋を出、当てつけのように玄関の履き物を散らかしながら靴を履く。振り返っても、開け放したままのドアからは何も聞こえてこない。舌打ちをひとつ落として夕日と対峙した。あらゆるものを毒々しいほどに塗り潰す橙が、今日は殊更恐ろしく思えた。 『ごめん。今日は……さんと帰るから』 とある試験の三日前。部活動が休みになったからと、湊は軽く手を振って別のクラスへ急いだ。こちらを見ようともせずに。 それが気に入らないと思ったことはない。何かと過敏な年頃なのだから、友人に色恋沙汰を話すことに抵抗を覚えるのは当然だ。女性のように共有意識があれば別かもしれないが。まるで予定などないのに、もし立場が逆なら自分もそうだろう、などと思ったものだ。深くは追及せず、湊が話したい時に聞いてやればいい。その時はそう信じていた。なのに。 (俺になんか、言ってもしょうがない…と思ってるのか) とぼとぼと橙の道を進みながら頭を垂れる。 もし自分に恋愛経験が――付き合うとまではいかずとも、せめて誰かを愛したことがあれば、湊の気持ちを理解してやれたのだろうか。仮定の話など無駄だと振り払うべきなのに、憔悴した湊の表情がこびりついて離れない。 (人を、好きになる……) ずきりと胸の内側が痛む。喜怒哀楽さえ封じ込めていた頃に比べれば、自分の「心」は確かに実っているだろう。けれども、根本的な感受性は人間として明らかに劣っている。「嫌い」は知っていても「好き」は知らない。「憎む」は知っていても「愛する」は知らない。だから、大切なものを失った友人にかけるべき言葉も知り得ない。 足元に転がっていた石を前方へ蹴り込んだ。吹っ飛んだ石はやがてコンクリートの塀に激突し、ぱかりと無様に断面を晒す。腹の奥で燻っていた怒りの矛先がようやく見えてきた。 本当に気に食わないのは、傷心のまま立ち直ろうとしない湊でも、その原因の一端たる彼女でもない。隣にいながら、何一つ彼のためにしてやれなかった自分だった。 *** 湊には散々慰めてもらっておいていざ湊が落ち込むと慰めのひとつも言えなくてそんな自分が嫌い、な遥を書いてみたかったので greenは未熟な〜みたいな意味だと思って下さい ↑main ×
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