:: もっちチョコパンと震災
2017.08.10 (Thu) 20:40

名称は店によるが、比較的どこでも売られているこのパン、一度は見たことがあると思う。白地にチョコレートが練り込んである楕円形のパンだ。これをたまたま新幹線で食べていて、六年前の震災を思い出した。

3月11日、私と母は中学の卒業式を終えた弟と一緒にカラオケ店に来ていた。今はやや落ち着いたかもしれないが、当時は娯楽の先端であり、月に二度ほどは通っていたと思う。人気だけあって待ち時間もそこそこあったが、時間の余裕もあり、まぁいいかとのんびりした気持ちで待っていた。やがて順番が回り、こじんまりした部屋に案内される。デンモクを取り出したりマイクを準備したりして、さぁ歌うぞ、と一曲めを転送した時、揺れが起きた。
いったん収まったところで駐車場に避難するよう指示され、皆が一目散に駆け出す。これは只事ではない、と誰もが予感していた。母の車でラジオを聞いた時には、既に恐ろしいことが全国で起こっていた。溢れそうな道路を通ってどうにか帰宅すると、いつも井戸端会議の如く祖父母たちが繰り出していた広場にはやはり人がいた。3月とはいえまだ寒さが身にしみただろうが、家の中では皆心細いようで、少しでも誰かと身を寄せあっていたかったのだ。挨拶もそこそこに、私は急いで家の二階へ向かった。私の部屋の一部はデスクに乗っていた教科書で埋められていたが、もとから綺麗でもなかったので別にいい。問題は愛するペットがぺしゃんこになっていないかどうかだ。私が当時お遊びに使っていたパソコンはこたつの天板から床にダイブしていたが、これもまた普段からポンコツだったので気にしない。こたつをめくると、この非常事態にもかかわらずカメはすうすうと寝ていた。別に身の危険を感じて自らこたつに飛び込んだのではなく、日頃からこうして惰眠を貪っているに過ぎなかった。ともあれ無事でよかったと、上着にくるんで避難させた。
翌日。父と母は職場が心配だとそれぞれ向かってしまったため、弟と二人、近所のスーパーの行列に並んだ。会社なんて電話一本で上司に確認しろと思うかもしれないが、回線は地震発生から既にパンクし、10回に1回つながればましなほうだった。メールはもっとひどく、サーバーから取り出せたのは三日後だった。
祖父母を家に残し、二人で開店直後のスーパーに突撃してあらゆるものを仕入れた。そこでアルバイトをしていた友達に尋ねたが、もう水の在庫はないと言われ、やむなくお茶を買った。お握りもほとんどなかったのでパンやスープを買って帰ってきた。食欲の有無はともかく、この時はまだ水も電気も健在で、大きな余震さえなければ調理くらいは楽にできた。
その翌日。父は店を手伝うからとドラッグストアに向かい、私も昼のパンを持ってくっついていった。家にいたところで胸を痛めるニュースが目に入るだけなので、何でもいいから何かしていたかった。店の惨状は私の部屋を遥かに凌いでいた。割れた瓶からアルコールが漏れだし、それらが混ざった匂いが強烈だった。比較的軽い薬や化粧品類はほとんど棚から落ちており、一か月後にまた強い揺れが来るとも思わず、私はその片づけをしていた。父は本部の人間なのでいつもなら店員の皆さんもやや煙たがるのだが、当然ながらその時はすんなりと協力を受け入れてくれた。
やがてお昼になり、店の裏方で休んでいいと言われたので私はパンを片手に関係者入口をくぐった。掃除が行き届いているとはお世辞にも言えなかったが、そんなことも気にならなかった。すいているのかわからない腹に黙々と詰め込んでいたのが、例のもっちチョコパンである。普段そこまで甘いものを食べないこともあって、今食べるとかなり甘く感じる。よくこんなものを水なしで食べられたと思う。当時はいろんなことがありすぎて、体が鈍感になっていたはずだ。たとえ寿司や焼肉を口にしても、そんなにおいしいとは思えなかっただろう。今が健康だという証かもしれない。

こう書くといかにも暗い毎日だったように思えるが、決してつらいことばかりではなかった。この二日後に私たち家族は千葉へ避難することになるのだが、知らない土地で多少の不便はあれど、親戚の二世帯住宅の一部を貸してもらえた。余震も少ないおかげで眠りも深く、きれいな湯に毎日つかり、物がたくさんあるスーパーで買い物をし、久々のきちんとした食事もとれた。暇になったので散歩に出掛けたりもしたが、一番嬉しかったのは多忙だった母と毎日過ごせることだった。一人暮らしを控えていた私へ、神様は最後にこれまでの時間の埋め合わせをしてくれたのかもしれない。少なくとも母が退職するまでは、あの時間はもう来ないだろう。
余談だが、父がそろそろ車を買い換えるらしい。今の車の初仕事が私たちを千葉まで逃がすことだったのかと思うとちょっと申し訳ない。

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