どうしても、理解できないことは世の中に沢山ある。ぼくは子どもだから、分からないふりもできるし、知ることもできる。その昔、父さんが母さんのことを押し倒していたことがあった。幼いぼくは何をしているか分からず、ただただ恐かったことを覚えている。母さんはとても苦しそうで。ぼくは父さんが母さんを虐めているのだと思った。その日からだ。ぼくが父さんを嫌いになったのは。父さんは母さんを虐める悪い奴と認識してしまった。決してそんなことは無いのに。母さんは悲しそうだった。父さんなんかもっと。でも、ぼくがその行為の意味に気付くのはもっと後のこと。それまで、父さんには淋しい思いをさせた。母さんは虐められていたのではなく、愛されていたのに。










「母さん」


子どもはそっと私の耳もとで言った。私が目を向けると、彼は夫によく似た顔で微笑む。ねぇ母さん。彼は言った。愛されるってどんな気持ち。そう続けてから、彼の瞳は私から、目前の黒く輝く石に向けられて。私もつられるように、石を見上げていた。


「わからない」


私は口から零れるように紡いだ。幸せとか、嬉しいとか、色々とあるのだろうけれど、難しくて私には分からないと思ったからだ。それでも子どもは、にかっと満足気に笑って、


「本当に不思議な夫婦だね」


と、言った。本当にそうかもしれない。私たちにとって、愛し愛されると言うのは当たり前の事すぎた。なにも意識したことがない。ぼんやり空を見上げて考えていたら、彼から帰ろうかと、耳もとに声がかかった。


「ええ」


私が頷くと同時に、彼は車椅子の取っ手に力を込める。カラカラと音を出しながら車椅子が進んだ。私は同じリズムで身体を揺らし、巡る景色の変様をぼうっと眺める。日が落ちる前の静けさが、やけに身体に染みた。


「母さんを置いて、先にいっちゃうなんて、父さんは本当にダメな奴だよなぁ」


子どもは車椅子を押しながら、ぼそっと呟いた。夕日に染まる丘の上で、彼は足を止めると、私の方へ向き直る。


「でも、父さんらしいというか。きっと天国へ行っても、母さんがさみしくないように、待っていてくれているのかもね」


柄にもないなぁ、と照れた素振りで頭をかくと、彼は丘を下っていった。私が見下ろすと、彼は手を振ってから、ボールと戯れる。まるで昔の夫を見ているようだった。
そう、過去の話をすれば、尽きることはない。彼がなぜゴールキーパーにならなかったのか、彼の目標は何か、彼が最も尊敬した人物は誰か。その答えは全部、君なんだよ幸次郎。君のゴールを割って、君を越えたいからゴールキーパーにならなかった。君に近づきたいからプロになった。君を尊敬しているから、全く同じ路に進んだ。全部、全部君のため。だけど、本当のことを知る前に、君はいなくなった。不器用で、恥ずかしくて、言えなかったことは知っている。彼は酷く後悔していたよ。もちろん、私もそうだ。まだまだ一緒にいたかった。話したかった。会いしたかった。どれだけしてもしたりないようなことをしたかった。でもなぜか後悔ばかりしてしまって。きっと君にいったら、そんなことはないよと泣かれてしまうだろう。


ねぇ、幸次郎。
私は君を愛することができたかな。


いつもいつも、もらってばかりだったような気がして。私はなにか、君に受け取ってもらえていたのだろうか。考えると、少し泣きそうになってしまうのだ。




















なまえ…










ふと、風に乗って彼の声が聴こえた気がして。振り向くと、若く綺麗なあの頃の幸次郎が立っていた。私も立ち上がって駆け寄る。スカートの裾をなびかせ、転びそうになりながらも、彼の腕の中へ収まって。幸次郎、と名前を呼ぶと、ふわりと彼は微笑んだ。ごめんね、ごめんね。泣きながら謝ると、幸次郎は笑い、返事の代わりに私を抱きしめる。太陽の光のような、温かい匂いがした。溶けてしまいそうな、あったかい匂い。今までに無いくらい、強い力で抱き締められた。気持ちが良くて、空をも飛べそうな感覚。ずっとこのまま、一緒にいよう。そう私が言うと、彼は頷いた。皆も待ってる、そう付け加えて。あぁ、そうか。向こうには皆もいるんだね。そう思ったら、幸次郎の肩越しに、懐かしいみんなが見えた。鬼道くんに、佐久間くんに、みんなみんな。そんな皆の真ん中に、彼は私の手を引いて進んでいく。大きくて、あったかくて、堅くゴツゴツした彼の手から目を離すと、眩しい夜明けのような光の中に、広いサッカーコートが広がり。サッカーしよう、そう幸次郎が笑っていた。

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