「おやすみ」

「ん、おやすみ」


…なんて言葉を交わしたのは何時間前のことだろう。私は現在、カッとまぶたを開き、眠気を飛ばしている。あることを思い出してしまったのだ。


「…おにぎり、作るの忘れた」


説明しよう。おにぎりとは、幸次郎にとって朝ごはんまでの腹ごしらえで。早朝トレーニングから帰ってきた彼が、唯一楽しみにしているものだった。一日くらいとも思ったけれど、初日の悪夢が脳裏をよぎる。4時起きなんて、勘弁してほしい。今起きて、ゆっくり目を覚ますか。今寝て、早くに起こされるか。私は泣く泣く前者を取った。





「…さむい」


夜中はとうに回っている。廊下を漂うひやりとした空気が身にしみた。


「…うぅ…」

「ひっ!な、何…?」


廊下をそろりそろりと進む途中で、後ろから何か声のような音が聞こえた。男の呻き声のような何か。驚いて音がした方を見ると、そこは幸次郎の部屋が佇んでいた。


「な、なんだ…」


幸次郎か…。ふぅと息を吐き、胸を撫で下ろす。しかし安心したのもつかの間、こんな時間に何をしているのだろうという疑問が湧いた。少し躊躇いながらも、ドアノブに手をかけて力を入れる。


「…あっ…んぁ…」


えっ…?動揺して硬直する体。今の声はなんだろう。やけに濡れた声に聞こえたけれど。そーっとドアに耳を近づけると、中の音がよく聞こえた。


「…くっ…ぁあ…」


聞こえる声はやはり特殊だった。一体なかで何を…。そんな私に考えられるのは一つ。まさか幸次郎は、一人で…?想像したら、ぶぁーっと顔が熱くなった。しかし彼も男だ。考えられないことではない。成神くんあたりも言っていた。幸次郎だって男なのだ、と。考えれば考えるほど恥ずかしくなって、踵を返す。直後、


「…ぁ…っなまえ…」


幸次郎が私の名前を呼んだ。急に熱を帯びる身体と頬。どきどき、どきどきと胸が高鳴る。


「…なまえ…あぁっ…なまえっ…」


扇情的な声に名前を呼ばれてしまっては、身動きするのも忘れてしまう。どうして、何故かは分からない。でも、この場から動けなくなってしまった。


「…あっ…も、駄目…だ…」


幸次郎はかすれた声で呻くように呟く。それすら私にとっては初めて聞く声で。きゅうと部屋着の端を握りしめることしか出来なかった。


「…ぁっ…あ゙あっ!」


若干大きめの声が響いた。すると今までのような声が聞こえなくなり、代わりに落ち着いた呼吸音がかすかに耳に入るようになる。


「………はっ…はぁ…」


我ながら馬鹿だなぁとは思う。彼の男の部分を知って何が面白いのだろう。けれどそれが、冷静な思考を邪魔したのも事実。今初めて、自分が何をしているのかを判断することができた。いつまでも此処にはいられない。そっと立ち上がると、彼は何か呟いていた。


「…は、はぁ…痛かった…」


い、痛いんだ…。


「う、でも…治まってよかった…」


えっ、そんな衝動的なものなんだ。不思議に思い、耳を澄ます。


「………はぁ、こんな夜中に足がつるなんて、ツイてない。…痛かった」

「えっ…?」


思わず声が出た。口を手で塞いだけれどもう遅い。ん?声…?という不審そうな言葉のあと、彼の部屋の扉が開いた。


「あ、れ…?なまえ?何してるんだ」

「な、ななな、何もしてないよ!何も!」

「顔が真っ赤だ」

「き、気のせいだよ」

「そうか?………そうだ!怖くて一緒に寝たくなったんだな!分かるよ」

「えっ…ま…」


ぐいと腕を引っ張られ、部屋に連れ込まれる。うわ、シンプルで幸次郎らしい部屋、なんて思っている暇もなく。ベッドに押し込まれる。


「ま、待って…」

「ん?…大丈夫、背中を向ければいいんだろ」

「そういう…」

「じゃあ、おやすみ」


ぱちりと電気が消された。暗くなった世界で、ただ背中の体温を感じる。さっきの声を思い出すと、変な感じがする。この気持ちが何なのか、知りたいような知りたくないような…そんな、曖昧な気分。どうしてもっと抵抗しないの。どうして拒否しないの。自分自身の意思すら曖昧になっていた。今さ、足がつってさ、思わずなまえの名前を呼んじゃったんだ。そしたら治ったぞ。なんて、ぼそりと話す彼が愛らしく感じてしまった。

翌日、私は二度目の悪夢を見た。くまが出来た顔でスーパーに行ったら、買い物カゴを持った幽谷くんがいた。凄い隈ですね。僕のバンダナ、貸してあげましょうか、ヒヒヒ。といわれたけれど。丁重に断ったら、残念そうにしていた。

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