始まりは突然だった。…突然だったけれど、なんとか受け入れて、なんとか生きてきた。その生活に、辛いことなんて一つもなくて、面倒だとも思わなかった。誰かのために、何かをして。何かのために、頑張れて。初めて誰かと生活して、初めて誰かとキスをする。得られることばかりだったのに。始まりと同様に、終わりも、突然だった。 「…転、勤…?」 始め、その言葉の意味が理解できなかった。電話口の親の声は急いでいるのか、早口で。いつまでも源田さんとこにお世話になっていないで、早く帰って来なさいと、言っていた。同じところから、無機質な音が聞こえてきても、しばらくは信じられなかった。 「…そうか、残念だな」 「なまえ…、そんな…。き、鬼道さん、なんとかならないんですか!?」 「…親の都合だぞ、佐久間。まして北海道など、遠すぎる」 「鬼道くん、佐久間くん、ありがとう。私は大丈夫だから、その…」 「源田か…?」 鬼道くんが心配そうに言うので、こくりと頷いた。そうしたら、頭にポンと手を置かれ、任せておけと、囁かれる。なんだかすでに、泣きそうだった。 「なまえ…。そ、そういえば源田の姿が見えないな。こんなときに、どうしたんだ?」 「それが…」 昨晩、親の電話のすぐあとに、幸次郎に報告した。どんな顔をされるか分からなかったけれど、その予想のどれにも彼の表情は当て嵌まらなかった。ただ、無表情に私を見つめてきたのだ。何度か口を開きかけたけれど、それらが言葉になることは無く。ただ、悲しそうな顔をして、部屋に戻って行った。名前を呼んでも振り向くことはせず、バタンと勢いよく閉められた扉の音が、頭の中でこだました。 「…幸次郎は、私のことを嫌いになったんだよ」 「…なまえ。そんなこと、あるものか」 「佐久間くん、いいんだよ。いっそ嫌いになってくれた方が、ふっ切れるだろうし…」 「それは源田がか?」 「そう、私なんていなくとも…」 「馬鹿を言うな!」 佐久間くんが急に叫ぶので、教室中の目がこちらを向いた。落ち着け、佐久間。と鬼道くんがなだめると、すまないと呟いて、彼は座る。少し落ち着いてから、佐久間くんはぽつりぽつりと呟いた。 「…ふっ切れるとか、ふっ切れないとかじゃ、ないだろ?…忘れられるわけ無いんだよ。源田にとって、お前は…」 「佐久間、よせ」 「鬼道さん…」 それ以上、彼は語ることをやめた。私はなんだか、頭をずかんと殴られた気持ちになって。自分の浅はかさが嫌になる。言ってはならないことを言ってしまったと、後悔した。 「とりあえず、出発はいつなんだ?」 「…あした」 「明日…?随分急なんだな…」 「…親もそう言ってた。でも、私の荷物はまとめ終わったんだって。勝手だよね…」 はははと笑っても、それが強がりだなんて気がついていた。じゃあ今夜、お前たちの家に集まろう。と鬼道くんは優しく言ってくれたけど、それがなんだか辛かった。 「第一回〜!帝国学園サッカー部、闇鍋大会〜!」 「なんで、ここに来て闇鍋なんだよ!」 成神くんが楽しそうにワイワイと盛り上げてくれている。洞面くんも、大楠くんも、咲山くんまでも、みんな私に何らかのプレゼントをくれた。だけどなぜだか心が満たされないのは、帰ってきてからも、幸次郎に会っていないからだろう。 扉をノックしても、名前を呼んでも、返事をしてくれなかった。やっぱり嫌われたんだ。…佐久間くんは、あぁ言うけれど、これでよかったんだと、私は思う。これで…。 「おい、なまえ。洗濯物どうする?このままじゃあ、匂いが付くよな」 佐久間くんがこちらを呼んだ。その言葉にハッと前を向くと、鬼道くんと目が合う。今までずっと見られていたかと思うと、顔が赤くなった。 「なまえー?」 「あ、あぁ、うん。じゃあベランダに…」 あれ?そういえばと、不審に思った。今朝は幸次郎とのいざこざがあったから、洗濯物なんて干していない。焦って、佐久間くんがいるところへ向かうと、しなしなに干された洗濯物があった。所々に、溶けきらなかった洗剤の残りが付き、洗濯というにはあまりにも不甲斐ない。…私以外にこんなことが出来るのは…。もしかしてと思い、よろよろした足どりで、キッチンへ向かった。 「…お皿、洗われてる」 朝ごはん、幸次郎の部屋の前に置いておいたはずの皿も、きっちり洗われていた。流しの表面を指でなぞると、ちくりとした痛みが走り。見ると、小さな破片が刺さっていた。 「…ひとつ、割れたんだ」 「こ、うじろう…」 聞き覚えのある声に振り返れば、なんだかやつれた表情の幸次郎がたっていた。まぶたは心なしかはれていて、鼻は赤い。 「…洗濯も…皿洗いも…できた。昼ご飯も…なんとか、作った…。買い物も…一人でできた…」 「………」 「電子レンジも…掃除機も…使えた」 何度か絡まって転んだけどな…、と力無く幸次郎は笑った。こんなに元気がない幸次郎は初めて見た。見ているこっちが元気がなくなってしまいそうな、そんな笑顔。掃除機がかけられてざらざらしない床を、確かめるように彼は足で撫でていた。 「…なまえ、」 「…え?」 「俺のこと、嫌いになったか…?」 「そんなこと…」 「………俺は、ダメだった。…嫌いになんて、なれなかった。なまえを嫌いなんて思うくらいなら、…死んだほうが、ましだって思った…」 「幸次郎…」 「でもお前が俺を嫌いだというなら、離れたいというなら…、俺は、お前を、…」 言葉が途切れる。ふ、と彼を見ると、静かに涙を流していた。拭うこともせず、躊躇うこともせず。ただ淋しげな瞳で、涙を流している。 「幸次郎…」 私も幸次郎を嫌いになろうとした。そうして別れる苦しみを和らげようと。でも、駄目だった。嫌いになんて、なろうとすればするほど、自分が嫌いになったからだ。幸次郎を嫌って、自分を守ろうとする自分。そんなこと、絶対に嫌だった。佐久間くんが、怒った意味。やっと気がつけた。 「私…いやだ…っ」 駆け出すように、彼の元へ近付く。涙なんて、抑えられるはずがなかった。幸次郎は今までないくらい強く抱きしめてくれて、私も負けないくらい強く抱きしめた。情けないけれど、嗚咽が止められなくて、声も我慢できない。いつしか幸次郎は、私の頭に手を置いて、ゆっくりと撫でてくれていた。 「…なまえ、今までありがとう」 「…そんなこと、ない…。私は何もしてない…」 「でも、俺は洗濯も買い物もできるようになった…」 「…あはは、洗濯をあれですましたら、痒くなっちゃうよ…」 「…そう、かな…」 幸次郎は少しだけ、声を出して笑った。私も笑いが込み上げてきたけれど、悲しみが邪魔をして笑えない。 「なまえは、何処へ行くんだ…」 「…北海道。…蟹とか、送るね」 「…蟹か、…いいな。学校はどうする」 「今のところは、白恋中に入ろうと思ってる」 「白恋中…?…聞いたことないな…」 「うん、私も。…でも、サッカー部はあるって」 「本当か?…だったら、また会えるな」 「…どうかな。会えるといいけど…」 ぎゅうと腕に力を入れると、幸次郎もぎゅうと握り返してきた。そしてそのまま、唇を近づける。触れるか触れないかのところで、彼は言った。 「…信じていれば、また会える」 そうして、触れた唇に。出会った時の、頼りない彼などいなかった。 「…はい、じゃあ主役も揃ったことですし、さっそく蓋をあけますか!」 「いいぞー、成神ー!」 「ちょっと、開けるとき露を飛ばさないでよね」 私たちがいない間など、なかったかのように、みんなは振る舞ってくれた。私と幸次郎はぐいぐいと真ん中に導かれ、すとんと座らされる。隣の佐久間くんは、にこりと笑いながら私に小皿と箸を手渡してくれた。私たちの様子を見て、みんな安心したんだと、感じた。みんなの目が、凄く優しい。 「じゃあ、主役であるなまえ先輩に開けてもらいましょーか!」 「えっ!?い、いいよそんな…」 「いいっすよ、先輩。…楽しいことは楽しまないと」 成神くんは、私の手を重ねるように鍋掴みに入れた。モコモコする布の中で、手が握られる。ちょっとどきどきしたけれど、目の端に映る幸次郎が唇を尖らせているのを見て、緩んだ口元を直した。 「じゃー、せーのっ」 わぁーっと一斉に皆が鍋を覗き込む。しかしそこから歓声は続かなかった。 「つ、つゆしかない…」 「どういうことっすか、これ!」 聞けばみんながみんな、『〜の素』を入れたという。 「僕はキムチ鍋の素を入れたよ」 「俺は味噌味の素…」 「俺、醤油味…」 「俺なんか豆乳鍋の素…」 なんだよもう、なんて残念そうにする皆。とんだ肩透かしだよ、と誰かが呟いた。 「…あぁ、そういえば、俺さっき買い物いって、いろいろ買ってきたな…」 「源田!?それは本当か!」 「なんだ鬼道もお腹すいてたんだな。佐久間も、そんな顔しなくても大丈夫だぞ。なぁ、なまえ。手伝ってくれ」 「あ、う、うん…」 「源田…」 皆、驚いた顔で幸次郎を見ている。それはそうだろう。人はこんなにも変われるんだ。私はどこか誇らしくなって、幸次郎の後を付いていく。冷蔵庫の中は、案の定、十分に鍋の中身になりうるものがぎゅうぎゅうにつめられていて。 「ちょっと、買い過ぎたな…」 そう笑う幸次郎が、とても愛おしいと感じた。その気持ちは、ずっと変わらないだろう。此処にいようが、何処へ行こうが、歳をとろうが、病に伏せようが。きっと私たちはどこかで繋がっているから。 「幸次郎、」 「どうした?」 「………ありがとう」 ほろりと落ちた涙を、彼は指で拭いとってくれた。私はずっと信じている。だからきっと会える。そうでしょう、幸次郎。今までずっと一緒だったように。これからも、ずっと…。 「あんた、何やってんの。早く帰ってきなさい!」 「お母さん…」 「なに?北海道、行くことにしたの?」 「………え?どういう…」 「だから早く帰ってきなさいって言ったでしょ。学園の寮に入るなら入るで、それなりの手続きが…」 「…じゃ、じゃあ白恋中の話は…」 「あれはあんたもついて来るならの話でしょ?…昔っから話聞かないんだから…、本当にダメねぇ…」 「あ、はは…」 MDG (まるでダメな源田くん) おわり |