がちゃり。誰かが部屋に入ってくる音がした。うんともすんとも言わずに入ってくるから、泥棒かなんてたまに思うけど、逆にその無言が彼だということを物語る。


「おかえり」

「………、あぁ」


彼はのそりのそりとした動作で上着を脱ぎ、私の横に腰を降ろした。その行動に、私は驚いて彼を見る。いつもの彼なら、ご飯を食べてすぐに部屋に戻るのに。


「どうしたの」


彼は無言のままテレビのリモコンに手をかけて、それを消す。急に静寂に包まれた部屋で、時計の秒針だけが動いていた。


「道也…」


私は異様な空気に不安を感じた。寡黙な彼が言葉を発さないのはいつものことなのに、どうしてこんなにそわそわするのだろう。彼は私の飲んでいたコーヒーに口を付け、ふうと息を吐いた。


「………るか」

「え…?」

「………いや」


彼はコーヒーの渦をじっと見つめ、また口を閉ざす。私はコーヒーと彼に、ころころと視線を移した。


「………なまえ」

「は、はい…」

「…お前は、愛せるか」

「なに…」

「俺が愛したものを愛せるか?」


彼はそれだけいうと、またコーヒーに口を付ける。私は意味がわからなくて、何度も聞き返してしまった。


「ど、どういうこと?」


つまり、彼には、もう一人大切な人ができたということなのか。要するに、愛人。


「なに…どうしてそんなことを…」


彼は無言のまま、私をみることはしなかった。私は悔しくて、裏切られた気がして、彼をギッと睨む。


「子ども、欲しがってたのに。俺たちの間にはできなかったよな」

「まさか…」


その女との間には出来てしまったってこと?…ふざけないで欲しい。そんなこと、許されるはずが…。


「天がくれたチャンスなんだと、俺は思うよ」


そう言うと、彼が笑った。あの、彼が。私は怒気をどこにぶつけたら良いのかわからず、震えるこぶしをにぎりしめる。こんな裏切り者の笑顔にも、愛情を感じてしまうなんて。情けなくて、涙が出る。


「冬花、入ってこい」

「は、はい」

「えっ!?」


なんてこと。家にその女を連れて来た?…私にどうしろというの。顔をあげ、女の顔を一目みようとして、目を疑った。


「た、ただいま」


その女は、まだ子どもだった。私はまた混乱して、彼を見る。彼は少し、緊張しているようだった。


「冬花、家の中がどんなものか、みてくるといい」


彼女はその言葉に頷くと、とたとたと部屋を出ていった。瞬間的に、私は彼を見る。


「道也、どういうこと」

「…あの子の親が亡くなったんだ。あの子には身寄りもなく、記憶も無くしてしまったらしい」

「じゃあ…」

「あぁ。今、あの子は俺を親だと思っている。父親だと、思い込んでいる。…そんな子どもを放って置けなかった。お前に苦労をかけると分かっていたのに、俺は…」


コーヒーを持つ彼の手が震えた。思わず私は彼の手に、自分の手を添える。


「私…勘違いして、バカみたい」

「え?」

「あの子は、私たちを選んでくれたんでしょう?…なら、私も応えるだけ。あなたが愛する子を、愛さずにいられるわけがないもの」

「なまえ…」


彼がぐいと寄せたあとに、口に残るのはコーヒーの香りだった。戻ってきた冬花には、お母さんと呼ばれ、抱きしめられる。急に賑やかになった部屋で、私たちは笑っていた。
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