「ま、まただ…」 卓上に乗ったテレビのリモコンを見て、私は愕然とした。今朝は机の角に沿って、直角に置かれていたのに、今は少し斜めを向いている。それに、脱ぎ捨てたように置かれた服だって、形が変わっている。朝とは違う形。…私は、一人暮らしなのに。 「先生?元気が無いですね…」 「…宮坂くん、」 休み時間に職員室にいれば、必ずこの子は来た。前はこんなに頻繁に来ることなんて無かったのに、今ではほとんど毎時間やって来る。いつの頃からだったか。…きっとこの子が敬愛する風丸くんが、サッカー部へ行ってしまってから。淋しいのだろうと、私は何も言わなかった。 「先生、またですか?」 「え、えぇ…。でも平気よ、」 「…僕、先生をそんな目に遭わせる人間なんて、許せないです」 「ありがとう、宮坂くん。でも大丈夫、大丈夫だから…」 そう、私は数ヶ月前からストーカーだか、こそ泥だか、空き巣だかに悩まされている。始めこそ泥棒かと思ったが、何も盗まれた形跡が無い。おおっぴらに置かれた現金にも手を付けず、一体何をしているのか。私はただ、残る人の気配に怯えるしかないのだ。 「警備員に聞いてみたんですか?」 「うん、一応ね…。そしたら、怪しい人は通らなかったけど、って言われちゃった。変ね、私の思い違いかしら」 「先生が言うなら、そんなはずはないです!きっと誰かが先生の部屋を………、そうだ。先生の恋人の方はどうなんです?今、別居してらっしゃるんですよね?その方が誰かの恨みを買って…」 「…修吾に限って、そんなことは無いよ。軽くても、人に恨まれるような人じゃない。私はそう、思ってるから」 「そう、ですか…」 彼の言う、二階堂修吾は私の恋仲だった人物だ。彼の言う通り、修吾とはお互いの思い違いから、別居中である。まぁ婚姻は結んでいないゆえ、正しくは喧嘩をして距離を取っていると言った方が正しいか。それでも、修吾は誰かを苦しめるような人じゃない。そんなことを思って、にこりと笑ってみせても、目の前の彼は一切笑わなかった。宮坂くんは、見えない誰かに敵意を見せている。彼の瞳が、怖かった。 「修吾、大丈夫?カップラーメンばっかり食べてないよね?」 「…あぁ。た、たまに外食してるよ」 「はいはい、どうせ飲み会でしょ。…じゃあ、洗濯は?」 「…して、ない」 「やっぱり。溜める前に小まめに洗ってって、何度も言ってるでしょう?」 「はは、なんでだろうな。不思議と出来ないんだよ」 「違うの。あなたは出来ないんじゃなくて、しないだけなの。ちゃんと清潔にして学校に行ってよ?また生徒から馬鹿にされても知らないんだから」 「………。わかってる、なまえ」 修吾は電話の向こうで笑った。きっとまた、私が口うるさいことに呆れているんだろう。私もまた、言っても言っても直せない修吾に呆れ返っていた。それでも、この他愛もない会話が楽しかった。私たちは、お互いの個性を潰し合うような喧嘩で別れたわけだけれど、離れてからお互いの個性が必要なものだったのだと認識した。…何という皮肉だろうか。けれどごめんねで、すぐ元には戻らないのが大人の恋。一度落ちたら、とことん落ちなければ、また繰り返してしまう。そんな意地っ張りな恋だった。 「また、かけるね」 「…あぁ、」 「ちゃんと野菜も取ってね」 「…分かってる」 「修吾、」 「…なんだ?」 「…あなた、ブロンドの女の人と遊ばなかった?」 「…い、いや?それはないよ。喧嘩して以来、こぶさただな…」 「本当?…分かった、じゃあね」 「…じゃあ」 ぷっと切れた電話の向こうで彼は何を思うだろう。なぜ、私がこれを聞いたのか。それは今日、初めて犯人の痕跡を発見したからだ。…長い髪の毛。しかも綺麗なブロンドだった。そう、相手は女だったのだ。 「もう…、勘弁してよ…」 燻る恐怖に、少し、疲れてしまった。 「せーんせっ!」 「宮坂くん…」 「あ、あれ?…元気、ないですね」 無邪気で素直な彼。…私にも、こんな時代があったかな。そんなことを思ったら、なんだか泣けてきて。宮坂くんに心配をかけてしまったようだ。 「せ、先生…、泣かないでください…」 「ごめんね、宮坂くん。ごめんね…」 「せん、せい………」 宮坂くんは心配そうな顔で、私の手の平を握りしめた。そして、私の顔を見上げる。 「………僕、今日、先生の家に泊まっていいですか?」 「…は?え?……えぇっ!」 「そうすれば、子供がいるんだって、相手も諦めますよ!」 「で、でもねぇ…」 「母親には勉強会って言いますから。…お願いします!…こちらが行動しなければ、何も変わらないんですよ!」 「………」 「…先生!」 「わ、わかったよ…。一日だけだからね?………お願い、する。一日だけ…」 どうしてこんなことになったのだろう。彼の笑顔は今まで見たことがないくらい、はつらつとしていた。…でも心強いと言えば、嘘ではない。少なくとも今晩は、ゆっくり寝られそうだ。 「おじゃましまーす!」 「い、いらっしゃい…、汚いけど…」 「全然!いい匂いがします!」 宮坂くんはにこりと微笑んだ。私は気恥ずかしくて、苦笑いする。 「そうだ。…先生、お手洗いお借りしていいですか?」 「あら、どうぞ?」 「失礼します!」 たかたかと宮坂くんは走っていった。子供が出来たみたいで、少し変な気持ちになる。そんな彼の為に、布団を出そうとしたら、携帯が鳴った。かけてきたのは、修吾。珍しいなぁと、通話ボタンを押した。 「はい、もしも…」 「なまえか!?」 「な、なに?そんな大きい声で…」 「無事か?」 「急にどうしたの?平気よ?」 修吾の声は明らかに異常だった。焦っているような、慌てているような声。走りながら話しているようで、息も荒々しい。 「あれから、お前の様子が変だったから調べたんだよ!そしたら警察に被害届出したんだってな!心配になって、俺なりに調査したんだ!」 「修吾………、あ、ありがとう。でも、何も分からなかったでしょ?私にも…」 「いや、分かったことが一つある。いいか?部屋に誰も入れるなよ!知り合いでもだ!」 「え?…うん」 宮坂くんが頭に浮かんだけれど、彼はまぁ、関係ないだろうと思った。 「いいか?俺はお前のとこの管理人に、話を聞きに行ったんだよ」 「あ、私もいった」 「じゃあその時、聞かなかったのか?怪しい人が通らなかったかって…」 「き、聞いたわよ!…でも、怪しい人は通らなかったけどって…」 「けど、の後は?」 「………聞いてない」 「そうか、やはりな。…いいか?そのあとにに続くのはこうだ。怪しい人は通らなかったけど、先生の教え子なら毎日くるよ、……だそうだ」 「…そ、そんな」 その言葉を聞いたとき、血の気が引いた。危うく電話を落としそうになる。もちろん、毎日、家で会う生徒などいない。 「なまえ、大丈夫か?ブロンドの髪とか言ってたな。そんな生徒はいないか?今、お前の家に向かってるからな。いいか?今行くから、大人しく待ってるんだぞ」 「し、修吾!待って!」 慌てて止めたけれど、今度は一方的に電話が切られてしまった。かたかたと震える手を抑える。ふと、背後に視線を感じ、振り返ると、宮坂くんが立っていた。 「せんせい?どうかしましたか?」 その髪の色は、ブロンドだった。 |