崩れ落ちた
寒空の下、冬風に晒されてすっかりひえきった冷たい頬に、ふわりと暖かさを感じた。まどろみの中を浮き沈みする思考を絡めとるように、ゆるやかに頬をなぞるぬくもり。
ひそやかな笑い声が聞こえた気がして、優しい暗闇に委ねそうになる意識を無理矢理起こして薄く目を開いた。
「…、」
頬を撫でるぬくもりは、大きなてのひら。胸に抱くブレザーからではなく、その手首からふわりと香ってきた匂いにはっと目を開いた。
「、さいじょう、せんぱい…」
紺碧色の冬空を背景に、漆黒の髪が風になびく。
寝起きの掠れた声で名前を呼べば、先輩はその秀麗な顔に薄く笑みを敷いて無言のまま、親指の腹でそっと俺の目元をなぞる。
なんでここにこの人がいるんだろう。咄嗟に身を捩ってその手から逃げようとしたけれど、先輩の両手にやんわりと顔を包まれてどうしようもなくなった。
息を詰めた俺をみて、先輩の左手が首裏にまわされる。
そのままぐ、と力を籠めて俺の上体を持ち上げようとするのに、大人しく従った。黒瞳と見つめ合ったまま、左肘で上体を支える。
胸の上でブレザーを握り締めていた右手を、先輩の右手に絡めとられる。先輩のブレザーの上で逃がさないとでも言うように絡めとられた指先は、拘束というには余りにも脆弱で。だというのに俺の身体は金縛りにでもあったかのように、先輩の黒曜石の瞳から逃げ出せないままだった。
むりやり顔に笑みをかたどる。
「せ、んぱい。こんなところで、何してるんですか?」
けらり。目元を細めて、薄い唇の両端を吊り上げる。
「このブレザー、先輩のですよね?」
けらり、けらり。笑みを重ねても、先輩は眉一つ動かさない。
「こんな寒い時期に屋上にきて、ダレに用事ですか? ああ、もしかして…」
違う、違う。言いたいのは、こんなことじゃなくて。
「あいつ、ここによく通ってますもんね。…今池に用事、とか?」
違う。けらりと裂けた口から、言葉が勝手に飛び出していく。
「せんぱ、」
「言え」
びくりと肩が跳ねる。一言で俺を黙らせた先輩は、口を閉じた俺を見て目を細め、顔を近付ける。先輩の漆黒の瞳に、歪な笑みを浮かべた自分が写っていた。
お互いの鼻先が触れ合いそうな距離。
「言え、……あずま」
先輩の呼気を、頬に感じた。
黒曜石の瞳に絡めとられる。はじめて呼ばれた名前に、ぞわりと鳥肌がたった。
「せ、んぱ…」
「東。…オレがお前の言葉を、聞く番だ」
「…、せん、ぱい、…さいじょう、せんぱい…」
至近距離で、先輩の獣のように鋭い瞳がゆるりとなごむ。せんぱい、喉の奥から搾り出すように声を出す。きゅ、と絡めた指先に力を籠めて、震える唇を開いた。
「、す、き…、せんぱい、すき…です」
ぽろり、言葉とともにいい加減枯れてもよさそうな程に流した涙がこぼれおちた。
ひくりと喉が震える。
「すき、なんです、…図書室で、言われて本当は、うれし、かった…。でも、でも俺は…っ、親衛隊、だからっ」
「関係ない」
「え、…?」
「東、」
触れ合いそうなほどに近付いていた鼻先が離れる。あ、と思った瞬間には身体は別のぬくもりに包まれていた。関係ない、呟く先輩が腕に力を籠めて、俺を抱きすくめる。
痛いほどに強く抱き締められて、いっそう強く香る先輩の匂いに緩んだ涙腺からまた一筋涙が伝った。
「愛してる…あずま」
涙をこぼした右目の端に、ちいさな口付けをおくられた。
今池が転入してきて、崩れた日常。足下からぼろぼろと崩れ落ちた、そのさきは。
「俺も、あいしてます。
…西条せんぱい」
fin
2010/12/03