その少女を襲った慟哭は、防衛本能という名の分厚い皮に守られていた。幾重にも重なったそれは、ついに十枚になり少女は多様な顔を見せるようになる。


俺の目の前にいる名前は、笑みを零した。そして、俺の名を呼ぶ。宿る意志は全く違う、名前と同じ声で。



「柳くん」

「柳さん」

「やなぎくん」

「柳くーん」

「…柳、くん」

「柳ィ!」

「柳くん?」

「やなぎー」

「やーちゃん」

「柳」

肉体は一つしかない。しかし彼女の中には、俺が確認した中では十人もの人格が存在していた。

名前は、幼い頃から両親から虐待を受けていた。それは想像を絶するような内容だったことを俺は知っている。何故なら、憔悴する名前を保護し暴虐の限りを尽くした彼女の親に法の裁きを受けさせたのは俺だからだ。
名前の腕に打撲跡を見つけたのも、必死に隠そうとする名前が怯えたようにその目に溜めた涙を拭ったのも、他ならぬ俺だった。



名前は自分の親に虐げられることから逃げた結果、愛されていないのは自分ではなく他の誰かなのだという認識をすることで、その念から逃れようとした。結果、多重人格、またの名を解離性同一性障害と呼ばれる精神病に陥ってしまった。
受け入れたくない記憶を別の人格とみなし、他人事のように振る舞い、己を守る自己防衛本能の一つ。人格同士の記憶の共有はされず、互いの存在も知らない。故に名前は俺の元へ訪れる。別人のようになって、人格たちがそれぞれの意志のもと行動する。



「あいしてる」

「愛してるの」

「愛してるよ」

「…あいしています、」

「愛してるんだからね」

「愛してる!」

「愛してんだよ!」

「愛してるわ」

「あいしてるよー」

「愛してるよ、柳」

俺にとっては何度も聞いた言葉でも、名前とその人格たちは知らないことだ。お互いが俺に愛を語らっているなど、知り得ないことだ。
その一つ一つを優しく掬い上げて、嚥下していく。とろけるような彼女の笑みに、俺は救われていた。



何処かで、俺のしたことは間違っていたのではと思うことがあった。彼女から両親を奪ったのは俺だ。例え暴虐の限りを尽くしたといっても、彼女の親は世界にもあの二人しか居ないのだ。
けれど、今更手放すつもりはなかった。だとしたら、俺はどうするべきなのか。答えは分かっている。しかしそれは非常に難解で、不安定に揺れる名前を受け止められるかと動揺する自分が居た。



「俺は、一人の人しか愛せない。お前の中の人格の一人を愛そう」

頬に手を当て、そう呟いた俺に名前はひどく驚いたように目を見開いたかと思うと何かを悟ったように笑った。
彼女も自分の中の誰かに気付いてしまったらしい。それぞれが、それぞれにメッセージを残し、その意思を知ったのだという。


途端に次々と入れ替わる人格が、それぞれに述べていく言葉を俺はしっかりと受け止めていた。解離性同一性障害とは、主人格を守るために生まれる人間の自己防衛本能だ。



故に、人格は最後に必ず語る。


「名前を幸せに、」





そのためにうまれてきたのだ、と笑う。目を伏せて最後の人格が姿を消した途端、名前は声を上げて泣いた。漏れる嗚咽を噛み締めしゃくりあげる名前を、ゆっくり抱き締めた俺の胸の中で彼女の髪を撫でてやった。すると、名前はポロポロと涙を零しながら口角を無理に上げて笑って見せた。


「柳、好き、すきだよ」



その言葉は、噛み付いた唇の中に消えていった。
20120209 杏里

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -