幸村の好きな花は、なんだったか。最近そればかりを考えてしまう。同時に恐ろしく思ってしまった。彼が好きなダリアの花を懐かしく思ってしまう自分がいる。どこかで幸村に重ねようとしている自分が居る。

まるで、幸村精市の変わりを捜すかのように。


幸村が倒れ、入院を余儀なくされて数週間が経った。彼が部長を務める男子テニス部に動揺が広がったのは言うまでもない。何故なら幸村の容態が芳しくないことは周知のことだったから。
原因不明の難病、と医者は口を揃えて言った。それ以外、何も分からない。不条理な世の中だと柳は言うけれど、その通りだと思った。




それは確か、中一の時だった気がする。幸村と私は世間で言う幼なじみで小さい頃から同じ幼稚園に通っていた。小学に上がると真田や柳とも行動するようになった。幸村のテニスはあの頃から上手かった。
中学を迎えるにあたって、みんなで立海を受験することになった。毎日その小さな手に握るラケットを思う存分振るえる場所は此処しかないだろう、と。

入学して、暫く経って。今までにない環境の中でも私たちが離れることはなかったし、そのつもりもなかった。幸村の自転車の荷台に腰掛けてすいすいと進んでいく彼に男女の差を感じた。

幸村が植物を育てるようになったのは妹の影響だったそうだ。夏休みの自由研究で面倒を見た朝顔のお世話がきっかけで、彼は沢山の花を愛でるようになったらしい。


「名前はダリアの花に似てるよ」

「ダリア…?あー、幸村の好きな花だっけ」

「うん」

自転車がでこぼこな砂利道を通ると、私たちの会話は妙に震えてしまってお互いに噴き出してしまった。
正直、私がダリアに似てるだなんて言われたところで喜ぶことも悲しむこともできなかった。何せ、私はダリアの花が一体どういうものかを知らなかったからだ。








「ねえ幸村、ダリアの花言葉って華麗、優雅、威厳、移り気、不安定、感謝、栄華なんだね。あたしなんかより幸村の方がよっぽど似合ってるじゃん」

ベッドに腰掛ける幸村はぼんやりと窓の外を見つめていた。最近の彼はここにあらずと言った様子で、話し掛けても返事を返してくれないことが多かった。
幸村の病室から見える青空は、夕方になると燃えるような橙に染まる。私はそれを見る度に「てづかくん」に負けた幸村と真田たちが悔しさに顔を歪め帰路についた日のことを思い出す。
隣にいた私は彼らと行動を共にしていただけであって悔しさなど微塵も感じなかったけれど、驚きはしていた。小学生の世界観などたかが知れている。私はこの世界で一番強いテニスプレイヤーを幸村だと思っていたのだ。



「…幸村?」

「ああ…、ごめん、ぼーっとしてた」

真田たちから聞いた話。あの幸村が、取り乱したという話。ヒステリックに声を荒げて叫んだ彼に、真田は言葉を返せなかったらしい。幸村は聞いてしまったのだ。医師たちが囁く自分の「未来」を。
ちょうど病室の花の水を変えに席を立っていた私の目の前には立海の面々が苦々しげな顔をして突っ立っていた。幸村の嗚咽と、病室の外で佇む彼らを見て私は全てを悟った。


真田は少し俯いたまま、「幸村を頼む」と呟いて去っていった。ぞろぞろと白い内装の廊下を立海の深緑の制服が進んでいく。ふいに振り返った柳が少し早足で私の元に戻ってきた。そっと肩に手を置いて彼はその優しいテノールで呟いた。


「精市を掬ってやれるのは、やはりお前だけなのかも知れないな」




花瓶を手に扉を引けば、そこにはいつもと変わらない幸村が「遅かったね」と笑みを零していた。








「何で俺なんだろうね」

ぽつりと呟いた幸村の言葉に主語はなかった。何で、と問われたその疑問に答えることができるのはたった一人しかいないからだ。しかもそれは非偶像的なもので、形を持たない存在である。幸村が私の前でこんな風に弱音を吐いたのは後にも先にも初めてだった。


「幸村は、なんて返してほしいの」

いつも私を見つめる幸村の眼は、真っ直ぐだった。あの自信に満ちた笑みも、常勝を掲げる立海テニス部の部長としての覇気すら感じられない。
誰が彼を神の子と呼んだのだろう。皮肉なことに、幸村は神を憎みさえするだろう。自分からテニスを奪う気でいる神を。
見つめ合う視線が折れた。反らしたのは、幸村の方だった。


「はは、やっぱり名前には適わないや」

ふわり、と幸村は笑った。それが余りにも綺麗で彼がまだ自分と同じ中学生であることを忘れてしまいそうなほど達観した笑みを浮かべていた。


たった一言。お互いに言葉を交わしただけ。それだけて幸村の瞳に小さな炎が灯ったのを感じた。消えそうな炎だ。少し息を吹きかけてしまったら、瞬く間に消えてしまいそうな。そうだ、私はその笑みを見つめてからと言うものの不安で仕方がない。以前は興味すら感じなかった植物たちに目を向けるほどに。

「幸村が、手術をするらしい」

真田から聞かされた言葉は、ちょうどダリアの花について調べていた私の耳に入った。放課後の図書館は少し不気味で、普段は余り近づかないのだけれど。
いつものように、しかし一人足りない真田と柳と私。図書室に寄りたいと提案したのは私だった。植物図鑑を手に取ると二人が顔を見合わせた。学年末考査を控えた私たちは、今年で三年生になる。

「そう」

「…聞いていなかったのか」

「うん、私には何も言ってくれないよ」

それが、真田に対して叫んだときの話をしているのだと知った柳が苦笑する。

「幸村は言わないのではないと思う。名前には言えないんじゃないか」

「どういう意味?」

「これはデータや理論では語ることの出来ない問題だ。従って俺の専門外なんだが」

「みんなして私には教えたくないってわけね」

「そんな訳無かろう、俺たちは…」

「ごめん、二人とも。ここで勉強して帰るから先に帰ってて」



不安定なのはどちらだ。やっぱり私は、ダリアの花だったのかも知れない。幸村の好きな花、私に似てる花。それがどんな意味を持つかなんて、本当はどういう意味か分かり切っていたくせに。
鼻の奥がつーんとして塩分が瞳から溢れ出しそうになる。何故、私は泣きそうなんだろうか。幸村が私に話したがらないのは心配をかけたくないからだってことは、柳を頼らずとも解っていたことだ。

でも、何処かでずっと思っていたのかもしれない。私たちはいつも一緒だったけれど、こんなときにまざまざと思い知らされる。男女の差だとか、コートに立つか、観客席からそれを眺めるかの世界の違いを。

後で二人に謝ろう。貸し出しのカードを切って、私は二人を追いかけるために物静かな廊下を走った。






私は観客席に居た。マネージャーでもない私は、そこから彼を見つめるしかなかった。歯痒い。私はいつだって彼を此処からしか眺められない。ベンチに座った幸村の肩に掛かる立海ジャージが揺れる。
泣きそうだった。その姿を見るだけで。

この会場に居る何人の人が幸村の苦悩を知っているのだろう。難病から奇跡的に回復した神の子。そんな風に書き立てられた記事を私は床に投げ捨てた。馬鹿馬鹿しい。幸村がコートに帰ってきたのは奇跡なんかじゃない。神に見捨てられ、自分の懸けるものを奪われた。そこから這い上がってきたのは幸村自身だ。


「幸村!」

私は、周囲の歓声に負けたくなくて張り裂けそうなほど声を上げた。けれど立海の応援団の声援や、観客たちのそれに呑まれてしまう。ちっぽけだった。いつだって私は、彼らを「隣」からしか見つめることが出来ない。

視界の中央の幸村が立ち上がる。はためく黄色と赤のジャージ。ゆるいウェーブのかかった幸村の青髪が風に揺れる。そして、一歩を踏み出した彼は何故か、こちらを振り返った。この空間で、まるで私たちだけが存在しているようだった。それはあの時の病室のようで、お互いに一言だけしか発さなかった、あの空間を思い出した。


「行ってくる」


幸村の唇が、そんな風に動いた気がした。


幸村くん誕生日おめでとう
20120305 杏里

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