その日、仁王は何故か嬉しそうだった。机の端に置かれていた黄色のヒヨコを持ち上げて、いそいそと中身を探っている。
彼の筆箱はとても個性的で、ヒヨコの縫いぐるみを自分で作り替えたらしい。嘴にチャック、綿を出した部分の収納スペースから真新しい消しゴムを取り出した。
青と黒のケースにローマ字ロゴの入った定番の消しゴムだった。ヒヨコの口から消しゴム、なんともシュールな絵面だ。
今は現代文の時間で、私の左斜め前の丸井はいつものようにグリーンアップル味のガム風船を作り出していた。教師が振り返る前にパチンと軽い音を立てて割れるそれに目を移しつつも左隣の仁王を盗み見る。
柔らかそうな銀髪が窓から差し込む日差しできらきらと輝いていて温かい気温に少し眠そうだった。いや、彼はいつも眠そうなのだが。
もう一度盗み見たとき、仁王はひたすらに消しゴムを擦っていた。比較的綺麗なその消しゴムを何度も何度も擦っていた。勿論、出てくる消しカスは汚れ一つない真っ白なものばかりで、仁王の異変に気付いた丸井が振り返った。
「お前何してんだよ」
「消しゴム擦っちょる」
「そりゃ見たら分かるっつーの、俺が聞いてんのは何で擦ってるかだろぃ」
「んー、ブンちゃんでもそれは秘密ナリ」
仁王は少しはにかんで、また消しゴムを擦り始めた。机の上には段々真っ白な消しカスが溜まっていく。丸井は理解しかねないという風に溜息をついて再び前を向き、頬杖をついて淡々と解説する教師を見やっていた。
「苗字」
ふと、隣の席から声がした。勿論それは仁王からであって、そちらに目をやり驚愕した。消しゴム一個をほぼ消しカスにしてしまったらしいそれは、机の上で上手く纏められている。ずいぶん小さくなった消しゴムはケースを必要としていない。先端に少しはまるくらいの大きさになってしまっている。
「何、どうしたの?」
「見てみんしゃい、消しカスの山」
「う、うん、消しカスの山だね」
仁王は残り少なくなった消しゴムをケースに入れたまま、ヒヨコの嘴に突っ込んだ。
その時だ、丸井が何か閃いたように後ろを振り向き、嘴に突っ込まれていた消しゴムを奪取した。
途端に仁王の顔に焦りが見えた。普段色っぽい笑みで覆っている下から、彼らしい表情が浮かび上がってきたようだった。
「何か可笑しいと思ったんだよな、仁王、前に消しゴム持ってたのに新しいやつ買ってきてるし」
「ぶ、ブンちゃん!やめんしゃい!」
「やめるわけねーだろぃ!」
ニタァっと笑った丸井はすっかり小さくなった消しゴムをケースから取り出した。そして何度かひっくり返し、何故か黙りこくってしまった。さっきまで輝いていた丸井の瞳は一瞬にして真ん丸に変わった。
そのまま顔を上げた丸井は私を黙って見つめる。仁王は両手で顔を隠したまま何も言わなくなった。え、一体何ですか。
消しゴムに好きな人の名前を書いちゃう仁王
20111012 杏里