シャカシャカシャカ、軽快な音が鳴る。ヘッドホンをつけた名前は膨大な量の書類と見つめ合っていた。黒のボディ、紫のスピーカー部分には彼女の好きなアーティストのロゴが入っている。そんなトレードマークを引っ掛けた科学班の名前がヘッドホンを付けるようになったのは、彼女がまだ読み書きを練習していた頃の話である。


言い争いの絶えない両親や、本人の目の前で悪態を付く兄弟の醜さに耐えかねた名前は一番上の兄にベッタリだった。兄は少し変わった人で、決して悪い人ではないのに我が家では両親たちの反感を買っていた。だから、幼心に彼を頼っていたんだと思う。

兄は私が物心付いたときからヘッドホンを付けていた。母さんが兄に怒鳴りつけても、やはり聞こえている様子はない。完全に周囲を遮断しているのだと思った。無理もなかったと思う。姉さんや兄さんも両親に似て、考えに感化されていて、兄を見下してしまっていたからだ。周りに渦巻く邪念を兄は何事もなかったように掻き回す。両親はよりヒステリックに、兄姉たちはより抽象的になった。


それでも私は兄さんにベッタリだった。きっと、兄と同じような人間だったからに違いない。息苦しくて仕方なかったのだ。父さんと母さんが言い争いを始めると私は兄さんの部屋に逃げ込む。兄さんはヘッドホンを付けている癖に、私が扉を開けると振り向いて机の引き出しを探り出すのだ。
出て来たのは黒のボディ、紫のスピーカー部分に兄のお気に入りのアーティストのロゴの入ったヘッドホン。大きさを調整して、私の耳に蓋をした。
それから私の脇を抱えると膝の上に乗せて兄はまたパソコン画面に目を向ける。カタカタと鳴るキーボード音、そして兄のお気に入りのアーティストの曲。私は目を伏せて両親が口を閉じるのを待っていた。





「名前、もう名前ったら!」

誰かが私の肩を叩いた。伏せていた顔を上げれば目の前には美人な人が立っていた。あ、リナリー。

「ん、どうしたの」

「音漏れしてるわ、一体ボリュームいくらなの?」

「あー、ごめんごめん」

科学班の一人、リーバー班長の下で働く名前は、エクソシストで教団一の美人でもあるリナリーに揺さぶられて目を覚ました。リナリーと同じで昔から教団にいた名前は彼女と親しい。共に此処で成長してきたのだから幼なじみとも言えるだろう。
科学班が労働基準法の「ろ」の字も守っていないのはいつもの事だが名前は比較的疲労を感じないタイプである。ただし感じないだけであって、蓄積はしているため予告なしにぶっ倒れるのは日常茶飯事であるが。


「名前、最後に食事をとったのはいつ?」

「んー、いつだろう」

リナリーから食堂へ連れ出された私はボリュームを下げてヘッドホンを耳に付けたまま廊下を進んでいく。基本的にマメな性格の名前だったが自分が必要としない、こだわりの範囲外なら行動を起こさないのが彼女である。ほかの班員は何とかして食事をとっているのだけれど、彼女に至っては栄養食品やサプリメントだ。
リナリーの入れてくれるコーヒーで済ますこともあるし、白衣はリーバーたちのものよりパリッとしていて新品のようだ。彼女のこだわり、白衣は常に清潔に。あの地獄のような忙しさの科学班で仕事をこなしながらそこは頭が回るのだ。余程器用でなければ無理だろう。
そして、彼女が秀才であるという事。教団の科学班はみな本部の科学技術を目指し憧れている。そんな中へ名前はたった8歳でやって来た。このヘッドホンを譲り受けた兄に手を引かれて。


「あれ、神田じゃない」

食堂に行く途中、リナリーが足を止めた。向こう側から、相変わらず仏頂面の神田が歩いてくるのが見えた。名前はビクリ、と体を揺らしてしまった。彼女は神田をここのところ避けていたからだ。


「り、リナリー、ごめん今日までに片付ける書類仕上げてない。このままだと班長が死ぬから行ってきます」

「え、ちょっと名前っ?」

いつも持ち歩いているクリップボードで顔を隠すように去っていった名前を見つめ、リナリーは再び神田の居る側に顔を向けた。するとそこには走り去る名前を呼び止めようと口を開きかけた神田が早足で此方にやってきている途中だった。



シャカシャカシャカ、軽快な音が鳴る。ヘッドホンをつけた名前は今日中に仕上げるべく積み上げられていた書類を見つめていた。その場から去りたいが為に付いた嘘だった。ジョニーたちは近くのデスクで疲労困憊の様子で崩れている。仕方ない、この際だから手伝ってやろうか。
黒のボディ、紫のスピーカー部分には彼女の好きなアーティストのロゴが入っている。名前がヘッドホンを付けるようになったのは、彼女がまだ読み書きを練習していた頃の話であった。
名前はこのヘッドホンを大層気に入っていた。大好きな兄から譲り受けたものであったし、何より周囲と自分を切り離すのにとても役立つからだ。ただ音楽を流して耳に蓋をするだけで、嫌なことも何もかも無かったことにしてくれる。こんなに素敵なことがあるだろうか。この、嫌なことだらけの、くだらない戦争を続ける世界で。

デスクにジョニーから引き継いだ書類を避けながら、思わず伏せてしまった。この黒の教団を訪れたとき、当時室長に任務される前のコムイに負け劣らない秀才がいた。それが、私の兄だった。そんな兄は私も教団に入れることを条件に入団した。あの家に私だけを残していくことを危惧してくれていたのかも知れない。今となってはもう、分からないのだけれど。
教団は、てっきりお荷物になるだろうと踏んでいた私が兄と同じ頭脳を持つことに嬉々としてその条件を呑み込んだ。両親たちも、教団から支払われるそれに喜んで私たちを送り出した。あのとき、初めて私は両親が兄に笑いかけていたのを見た。その笑みに、どんな添付がなされているかなんて、優秀な兄は分かりきっていたはずなのに。

ちょんちょん、と肩を誰かがつついた。伏せていた顔を上げるとジョニーが何やら困ったような興奮したような顔で何か喋っていた。ボリュームを下げ、改めて彼の言葉を聞こうとそちらを向いた。けれど、ジョニーが口を開くことはなかった。


「来い、話がある」


黒髪、真っ黒な瞳、最悪だ。



神田に連れられてやって来たのは談話室だ。今は人が出払っているようで誰もいない。私はさり気なく、ボリュームを元に戻した。
不意に、神田が此方を振り返った。相変わらず綺麗な黒髪をしている。日本人といい、中国人といい本当に、綺麗だ。

『 、  !   』

神田が何か話しているようだったけれど、私のヘッドホンから流れる音楽がそれを邪魔する。お生憎、私は読唇術は専門外なんでね。
神田とはリナリーと同じ、幼なじみのような関係だった。彼は周囲と余り関係を築かないし、小さい頃にリナリーに引き合わされなければ彼とは本当に何の関係も無かっただろう。廊下で出会ったり、団服のデザイン変更、食堂でばったりと何らかの原因が無ければ話すような間柄でもなかった。
そんな状態が十年近く続いていたというのに、ある日、突然崩れた。神田が先程と同じ様にこの広い教団の中から私を見つけだし、そして言ったのだ。


「聞いてんのかよ!」

いつの間にか近付いていた神田にヘッドホンを取り上げられた。一瞬体が固まる。けれど反射的にそれを奪い返していた。神田が、目を見開いた。

「…悪い」

神田は私がこのヘッドホンをどれだけ大切にしているか知っている。私がどれだけ兄を慕っていた知っている。

「少しでいい、だから話を聞いてくれ。俺は、」




兄さんが教団のホールに運び込まれたのは何年前だったか。真っ白な雪が吹きすさぶ日だった気がする。教団は唯でさえ標高の高い場所にあるのだ。冷え込むに決まっている。ホールに並べられた沢山の棺の一つに、兄は居た。
数日前に兄は故郷に足を踏み入れていた。原因不明の病が流行っていたそこでAKUMAのウイルスがばらまかれているのではないかと危惧された。そこで数人のエクソシストと、ファインダー、地理を知り立候補した兄が向かったていたのだ。生き残ったファインダーは私の元にやってきた。前々から交流のあった、兄と同じくらいの青年だった。

「ご家族は皆、AKUMAによって殺されていました…それを見た彼は千年伯爵に…家族を生き返らせてくれと、」

ファインダーの彼は、ボロボロと涙を流した。ただ呆然と話を聞く私の視界の端に、同じくあの町で生き残った、まだ幼さの残る神田が立っていた。

「神田様が応戦した時は既に、AKUMAに、」

差し出されたヘッドホン。黒のボディ、紫のスピーカー部分に兄のお気に入りのアーティストのロゴがあった。

「これだけしか、残っていませんでした」

あとは棺の中を覗いた私も知っている。見るも無惨な姿、兄だと特定するのは難しかっただろう。






神田は知っている。この時どれだけ私が泣いて、どれだけ兄に縋り、形見であるヘッドホンに執着したのか。周囲を遮断し、科学班の片隅で黙々と作業に耽る私を皆悲しい目で見つめた。やめて、そんなの望んでなんか居ない。私には兄さんが居ればよかったのに。
本当は気付いていた。兄さんがあの両親たちのために教団に入ったことも、周囲を遮断するためにあった兄さんのヘッドホンには、曲が流れていなかったことも。兄さんはすべてを受け入れていながらすべてを受け流していたのだ。母さんや父さん、姉弟を愛していた。どんな形でも喜ばれたいと、願って、愛していた。

だとしたら、私は?

兄に愛されていた?家族を愛していた?
考えるのが怖くなる。すべて、怖くなる。耳を塞ぐ、目を閉じる。ただそれだけで世界は真っ黒な静寂に包まれる。私の望んでいた世界、兄さんも両親もみんな幸せに微笑む世界。そこでは耳障りなノイズも存在しなかった。私に必要な音だけに満ちた世界、邪魔な外部からのコンタクトはすべて遮断。

そこに割り込んできた、鋭くて冷たくて、でもあったかい音。



「好きだ」

神田は前と同じ台詞を呟いて、ゆっくりと私を抱き締めた。ヘッドホンが床に落ちる。私が本当に欲しがっていた音は、ここにあったんだね、兄さん。









少し寂しくなった耳元には、ガーネットのピアスが付いている。誰かさんとお揃いの。
定刻、科学班の研究所の入口に凭れ、神田は呟いた。

「昼飯、行くぞ」

「うん、分かった。リーバー班長ー!ちょっと抜けますねー!」

最近は三つ編みやお団子、色んな髪型にリナリーがしてくれる。今まではヘッドホンが邪魔で出来てもすぐ崩れるし手付かずだったのだが、ここぞとばかりに気合いを入れてくるリナリーには苦笑した。神田は何も言わずに、でも心地よい距離にいてくれる。相変わらずだけど私たちにはお似合いだった。

兄の形見は私のデスクの引き出しの中、誰かの耳を塞ぐ時を待っている。嫌なことから逃れられるそれは、素晴らしく魅力的だ。けれど本当に望むものはすべてを拒絶したとしても衰えず、その者の芯に働きかけるのだとしたら、私は兄のようにこれを譲り渡すのだろう。

どこかで「それでいいんだ」と兄が笑っているような気がした。


20110904 杏里

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