反発感のある地面を蹴り上げるとスパイクから摩擦音がした。駆け抜ける世界はあっという間に過ぎていく。目にも止まらぬ一瞬の世界、私はそこで形さえはっきりとしない何かを追いかけていた。




中学の時は好敵手と呼べる相手が居らず、誰も私を抜いてゴールテープを切ることは出来なかった。渡される賞状やトロフィーは三年間でたんまりと増えて、周囲が向ける目は賞賛と嫉妬ばかり。
だけど私の周りにはいつも影か付きまとっていて、どんなに振り払っても抜けられない霧のようなそれは、私のすべてを霞ませる原因になっていた。



「風丸さんって凄いんだ、ほんとに風みたいに走るんだからな!」

別々の中学だった私たちは高校で同じクラス、おまけに隣の席になった。彼、宮坂とは何度か大会で顔を合わせていたので入学式から一緒に行動している。
面倒な説明会が終わり一段落ついたと思ったらこれだ。彼の憧れ、中学時代からの先輩、風丸一郎太は陸上の世界では有名だった。

だった、と言うのだから察しはつくだろう。運がいいのか悪いのか、私の居た中学は宮坂達の区大会場では会場が違ったし、ようやく本大会がはじまり当時一年だった私が出場する事になった大会の数週間前に、風丸一郎太は陸上を辞め、サッカー部に入ってしまったのだ。今の時代のネットワークというのは本当に恐ろしいもので、たった二日でその噂は私の耳に入ってきた。その時から私はずっと、ずっと、姿の見えない何かに追われ続けていた。


少し淡い青の髪を結い上げて、それが圧倒的な速さの中を駆けていく。生まれて初めて、心を焦がされた。じりじりと衝撃となったそれは私の全身を弱い電流となって駆け巡る。頭を埋め尽くす映像に、私の思考はすべて塗り替えられたのだ。
自分でも分かっていた。今私が頂点にいられるのは彼が一年早く生まれ、私が一年遅く生まれたからだということを。



「宮坂じゃないか」

「か、風丸さん!」

入部して数週間。部のメニューに従いながらゆっくりとグラウンドでアップしていると、フェンスを挟んで向こう側、サッカー部のグラウンドから声がした。共にアップを行っていた宮坂は勢いよく顔を上げた。

学年が違う上に部も違った先輩に遠慮して自分からは話しかけていなかった宮坂は、憧れの先輩から話しかけてくれた歓喜により、フェンスへ駆け寄ると言葉を逃すまいと近付いていった。

そんな宮坂に溜息をつき、「先に行ってるからね」とアップを続けることにした。先輩たちに見つかったら怒られるのは宮坂だけにしてほしい。
準備体操に移り、ストレッチを始めると視線は上へと向かう。夏が近付いてきているのか空はからりと晴れ、雲一つ無かった。この季節に走る陸上は何とも言い難い達成感と爽快感を感じる。風を切る感覚、結い上げた髪がスピードについて行けずに宙を舞って。

ふと気付けば、未だに宮坂と話している男が浮かび上がっていた。
空の青に海の青を滲ませたような色が、先程見た男の髪色に似ているなどと思ってしまった自分は、一体何を考えているんだろう。


「苗字ー!」

ようやく十本ダッシュが始まったというのに三本目を駆け出そうとした矢先、宮坂の声が私を呼んだ。
ようやく帰ってきたのか、と白い目を向けようとすれば後ろに青がちらついている。先に私へ駆け寄った宮坂は何故か嬉しそうだ。

「なあ苗字、風丸さんと走ってみないか?」

「は?」

いい加減にしないと先輩に怒られるよと言い掛けた私は目を丸くする。

「風丸さんが苗字と競ってみたいって!」

そう言って風丸一郎太へ顔を向けた宮坂に私は顰っ面を向けた。知り合いでもないのに先輩がそんなことを言うはずがないじゃないか。宮坂め、一体何を言ったんだ。
すると風丸先輩と目が合って、私の頭の中は毒々しい何かに包まれる。次いで口から出た言葉は自分でも棘だらけだと思った。

「練習中ですから、いくら陸上経験のある先輩でも部も違う人と勝手にそんなこと出来ません」

「な、何言ってるんだよ!いいじゃないか苗字!」

「宮坂も早くアップ済ませなきゃ叱られるよ、じゃあ失礼します」

「ちょ、苗字!」

何も言わずに見つめてくるだけの風丸一郎太を振り切るように、私はまた走り出す。頭の中はまだ毒物だらけだった。





それから数週間経った。宮坂は「無理に言ってごめん」と謝罪をくれたし、風丸先輩のことは相変わらず話すけど私と絡めようとはしなくなった。だけど時々、サッカー部と陸上部のグラウンドを仕切るフェンスの向こうから視線を感じることがある。
気付いて振り向いてもこちらを向いている目はない。ただ決まって、その場所であの青い髪が靡き、コートを駆けているのだ。



「何よ、一体」

訳が分からないのもあるが、無意識の内に私は彼から離れようとしている気がしてならなかった。その理由はとても簡単で、卑しいのだ。自分の劣等感がそうさせていることくらい、もうとっくの昔に気が付いていた。


「苗字」

部活が終わり、道具を片付けていると背後から音がした。振り向けば見えた藍色。思わず眉根を寄せてしまう。
無視して通り過ぎようとすれば、細っこい腕に力強く引き止められてしまった。反射的に睨みつけると、彼は「そんな怖い顔するなよ」と苦笑した。


「何か用ですか」

「そうだな、今は部活終わってるだろ?だから、苗字と走れると思って」

馴れ馴れしい態度で小さく笑った彼は、そのまま腕を引いて私をラインに並ばせた。陸上グラウンドに居るのは二人だけで他の先輩はもう帰ってしまったし、宮坂達はきっとまだ部室の中だろう。
他の部とは別の場所に作られたグラウンドだ。文字通り私達以外誰もいない。

「…そこまでして走りたいんですか」

「速い奴を見ると、競ってみたくなるだろう?」

また、くすぐったそうに笑った風丸先輩に私は無意識に唇を噛み締めた。その態度も、笑顔も全部が私を引き離していく。こんなにも近くにいるのに、この人を追い抜くことは出来ないのだ。とっくに陸上を辞めて、トレーニング方法も形式もまったく違う競技に身を置いたのに彼は未だに陸上という枠組みから消えようとしない。私の目の前をチラついて、邪魔をする。

「私は速くなんかありません」

あなたみたいに、風が駆け抜けるように走ることは出来ない。あなたみたいな、綺麗なフォームで走ることは出来ない。あなたのように私はなれない。

「そんなことない。俺には分かる」

「…練習中に見てたから、ですか?」

言い当てられた先輩は面食らったように目を丸くすると一気に赤面した。やはり、あの視線は彼のものであっていたらしい。「バレバレでした」と溜息を付くと、風丸先輩は頭を掻きながら俯いて「あー、その、」と口篭もった。そして誤魔化すように私との勝負へ話を引き戻した。


「よーい」

ラインに並んだ二人、風丸先輩のハンデだか知らないが私が自分でスタートの合図をかけることになった。ドン、と口にした瞬間、私の足は地面を蹴り上げ、加速する。
しかし、隣で巻き起こった風は一瞬にして私を抜き去り、ゴールラインを切っていた。行き着く間もなく肩を上下させる私に風丸先輩は言ったのだ。


「こんな時になんだけど、苗字、俺、お前のこと好きなんだと思う」

顔を上げると、全く息を切らしていない先輩が夕日と同じ顔色で照れくさそうに呟いた。ひゅう、とまた風が吹いて私の髪を揺らした風が先輩の青い髪も揺らしていく。

ああ、そうかと私は一人納得してしまった。限界は空の高さ、つまり限界なんて無いのだ。彼を縛る限界なんて、何処にも。





20110508 杏里

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