気付けば辺りは真っ白だった。私は真っ白な服を着てそこに立っていた。天井は見えない。遥か遠くにある様にも見えるし、無いのかもしれない。だだっ広い空間にぽつんと私は立っていた。
足下を見つめると後ろに伸びているはずの影はなく、光は降り注いでいるのに影が生まれることはなかった。まるで私の存在がうやむやになったかのように、影は私の背後に現れることはなかった。
頭の中から人間の煩悩というものが綺麗さっぱり消え去っていた。私は生まれ変わったかのような気分で背を伸ばした。吸い込んだ空気は、肺に入る感覚はなくただすり抜けていった。



唐突に真っ白な空間に黒い染みが見えて蜃気楼のように歪む。目を凝らすと、向こうから一人誰かが駆けて来ている。この世界で何を急ぐのか、焦げ茶色の髪が右側に流れていて、オレンジ色のフェイスペイントが目の縁から下へ伸びている人物は駆けていた。
彼は私の前まで来ると気が抜けたように立ち止まり「此処にいては駄目だ」と弾んだ息を整える暇もなく口早に言った。私にとって彼は初めて会う人だった。やけに馴れ馴れしいな、いつもなら疑ったことだろう。しかしこの世界ではそんな疑心もいらないのだと誰かが呟いている気がした。


だけど、どこかで見たことがある。頭の隅にぐちゃぐちゃに仕舞われている中の一つに、それは隠れているような気がした。



「何故?」

首を傾げながら問えば彼は少し困ったように「此処は居るべき場所じゃない」と眉を下げ、呟いた。
では何故私は此処にいるのだろう。何故ここへ立っていたのだろう。何故此処にいてはいけないと彼は分かるのだろう。目の前に立つ彼は私と同じ真っ白の服を着ていなかった。彼だけが切り抜かれたみたいに存在を主張していた。



ふと人の気配がしてそちらを見れば、沢山の人が歩いていた。真っ直ぐ真っ直ぐどこかへ歩いていく長い列が見えた。先程まで見えなかったのに、私たちの側にも長い列が伸びていた。並んでいる人たちは、楽しそうに会話をしていて皆生き生きと顔を輝かせていた。思わずその輪に入りたくなって、私は一歩踏み出した。

「駄目だ」

しかし彼は私の腕を掴むと、即答した。真剣な眼差しで首を左右に振り否定する。そっちは駄目だ、駄目だと繰り返す。

「帰る場所があるだろう」

「帰る、場所?」

「そうだ」

彼は頷いた。帰る場所、考え込めば考え込むほど答えは消えていく。ほとほと困り掛けた様子の彼は何か思いついたらしく俯いていた顔を勢いよく上げた。深い青色の瞳が私を見つめ、一瞬何かが過ぎったけれど今の私にはそれがなんだったのかさえ知ることは出来なかった。



「源田幸次郎」

「え?」

はにかみながら「俺の名前だ」と付け加えた彼は目を細めた。何を言うかと思えば名前を名乗っただけだった。源田幸次郎、と言うらしい。無意識に何度か繰り返し呟けば、どこかで引っ掛かり頭の中がざわざわする。
しかし私は、何という名だったのだろう。

「教えてくれないか」

「わたしの名前を?」

「あぁ、そうだ」

源田は手を差し出して、小さく笑う。すると胸の奥がぎゅうっと締め付けられるみたいに苦しくなった。私の名は一体何だったのだろう。思い出せないのだ、絶対に知っているはずなのに。生活をしていれば名を呼ばれぬ日などないのだから、忘れるはずもないのだ。なのに何故。

「ゆっくりで構わない」

そうはにかんだ彼に頭の中のもやもやが綺麗さっぱり解けた。ほろほろと記憶が降り注いで来る、思わず目を見開いて前にいた彼を凝視した。源田は嬉しそうに目を細めた。


手を握り返して目を瞑った。すると不思議なことに私の意識は仰向けになった何かの中にいた。小さくて紅葉みたいな手を開いたり握ったり、余りよくない視界を必死に使って周りを見ようとしていた。段々はっきりとした視界は愛の籠もった瞳を映し出す。私を愛しげに見つめるその瞳はとても愛に満ちていた。

「名前、生まれてきてくれてありがとう」

記憶が脳内を駆け巡る。私は、私の名は、




「苗字、名前」


目の前が絵の具を零したかのように色鮮やかになっていく。真っ白な世界は、音も立てずに崩れていった。彼の手を握りしめていた私は何故か泣いていた。悲しかったのかもしれない。源田くんも泣いていた。悲しそうではなかった、ただただ彼は涙を流していた。世界は今までにみたことのない、色に染まっていた。






気付いたらそこは病院のベッドの上だった。父さんと母さんは泣き叫んで私の名を呼んでいて目覚めた私を目一杯抱き締めた。すると思い出すのだ。両親が私を愛しげに見つめ、呼んでいた、まだ私が赤ん坊の頃の記憶を。

「帰る場所があるだろう」

彼が思い出させてくれたのだ。あれが何処だったのか今となっては知るすべもないのだが、私が目を覚ましてからちょうど数週間が経った頃、中学生サッカーの試合結果を知らせるニュースが入った。すっかり退院していた私はブラウン管の前で固まることになる。
壮大なフィールドの上に立っていたのは、あの世界で出会った男、源田幸次郎。彼はかの有名な帝国学園のゴールキーパーだった。


それからまた数週間後、部活に勤しんでいた私は肩を引かれた。剣道部の走り込みを終えた私は休憩のために水飲み場へやって来ていて、近くでは我が雷門中のサッカー部が練習試合を終えたのか他校の選手と和気藹々、話し込んでいた。
なのにだ、肩を引かれ私は驚き振り返った。幼なじみの守なら話しかける前に大声で名前を呼ばれるだろう。他も然りだ。だとしたら一体、誰が。


「苗字名前、?」

聞いたことのある声だった。しかし、彼の声がこんなにも空気を震いながら、私の鼓膜に響いている。それがどんなに素晴らしいことなのか、きっと私だけにしか分からない。

「源、田くん?」

顔を明るくさせた源田幸次郎は何故か私を力強く抱き締めた。私も、彼の背中に手を回してその存在を確かめた。


「源田くん、源田くん、ありがとう、!貴方がいなかったら私、今此処にいなかったよ」

そう言う私に源田くんはあの時みたいに笑って、頭を撫でた。


「帰る場所、見つかったんだな」

「うん、源田くんのお陰で。また会えるなんて思ってもみなかったなぁ」

「俺もだ」


頷いた私に源田くんは突然真剣な顔付きになって言った。

「苗字に会いたいと思っていたから、嬉しかった」


驚く私に源田くんは「あの日から苗字を思い出さない日はなかった」と語った。奇遇なことに私もまったく同じ心境だったのである。照れたように頭を掻いた源田くんは「これから、宜しくな」と顔を綻ばせた。釣られて私も、久しぶりに笑った。

愛された記憶はどんな形でも消えない。それは、相手を求めることと同じだったりもするのだ。




20110224 杏里

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