とろけたお月さま、チカチカ眩しいお星さま。浮かぶわたし、足場はふわふわのキルト、大好きなマシュマロみたいに柔らかい。
このふわふわ、何かに似てる。そうだ、あいつの頭に似てる。ふわふわ。
急になまえを呼ばれた気がした。振り向いたら、やっぱり、だ。優しく微笑まれて手を伸ばす。触れて、この手を捕まれた瞬間、まさは「名前ちゃん」と笑った。キルトのマシュマロが崩れた。
急降下、落ちていく。
ああ、朝だ。なんて思っても頭まで被ったふかふかの毛布から出たくないもので、太陽の優しい匂いに包まれたそれに潜っていると、何も考えたくなくなるのだ。
今日は特別お昼寝日よりになるんじゃないだろうか、なんて。ぽかぽかする体を猫みたいに丸めて微睡めば、部屋の扉が開く気配がした。母さん、まだ起こさないで、今とっても幸せな気分なんだ。
「名前ちゃん」
あれ、おかしいな。まだ夢を見ているのかもしれない。さっき聞いたばかりの声が鼓膜を震わせた。一緒に手を握って、甘い甘い濃紺の、シロップの海に落ちていったのに。
「そろそろ起きんしゃい」
「んー…」
「ふふん、今なら寝ぼけとるし襲い放題じゃの」
するりと別の体温が滑り込んできた。私の体を優しく包み込むそれは、布団の温かさとはまた違う安堵感を身体に染み込ませていった。けれど、もぞりと動く何かが首元を掠め、ゆっくり瞼を開ける。
朝日に透ける銀色が、対照的な光が、此方を見つめていた。
「…ピヨッ」
私の右腕が、唸りを上げる。
「あら雅治くん、どうしたの頬が真っ赤よ?」
「いやー、名前ちゃん襲ったら見事にストレート決められてしもうたぜよ」
「おい、人の親に何言ってんの」
「プリッ」
リビングのテーブルに並べられた朝食を引き寄せて自分の席に着くと、仁王は嬉々として隣に座った。時刻は6時45分。家は立海から近いのでまだまだ余裕である。
しかし、仁王はテニス部の朝練があり、私もそれについて行くつもりだ。
「というか何でこんな朝早くからまさが家にいるの?」
「ん?名前ちゃんに会いとうなった」
「そんな理由で押しかけていいの、うちぐらいだからね。じゃないと迷惑になるから気をつけてね」
「心配しなさんな、名前ちゃん家以外ホイホイ行くような男じゃないきに」
仁王はそう笑った。ふにゃっとした笑顔だった。つっこみどころはあるが、ここはあえてスルーさせていただく。
仁王はよくこんな笑顔をする。
私の好きな表情の一つだ。そうかそうか、と犬を撫でる要領で頭を撫でてあげた。すると既にビシッとスーツを着込んでいる母は何故か擽ったそうに笑うと、今の服装に似合わない、しゃもじ片手に語り始めた。
「わたしが朝刊を取りに行ったら雅治くん、玄関の扉の前で体育座りして眠ってたのよ。そろそろ夏になるって言っても朝はまだ冷えるし可哀想だから家に上がってもらって、ついでに名前を起こしてもらったの」
「え!まさ、玄関の前で寝てたの!?」
「うん、マリカーしとったら窓にお日様が見えてきたもんじゃから、これは名前ちゃんに会わないかんと思って」
「どんな理由だよ」
こてん、と頭を私の肩に乗せる仁王に呆れて溜息をつくと彼は嬉しそうにクツクツと笑った。言っておくが、母さん目の前で味噌汁注いでんだけどな。
「おはよー丸井ー」
「おー」
朝練に間に合った私たちは、眩しい赤髪に出会った。ほんと、立海テニス部は何でこう目にチカチカする髪色ばかりなんだ。
「あれ、ほかのみんなは?」
「部室。って仁王どうしたんだよその顔」
「いやー、名前ちゃん襲ったら見事にストレート決められてしもうたぜよ」
「いやだから何でそれをバラすの?何なの?一体何なの?」
「お前等ほんと朝から元気だよな」
とりあえず着替えるために三人で部室に向かう。すると中から真田と幸村くんが出て来た。
「む、丸井と仁王、苗字か。」
「三人とも、おはよう」
黄色い布地に赤のライン。立海テニス部のジャージだ。それを幸村くんはいつものように肩に羽織り、真田はお決まりの黒帽子を深く被っている。中学時と変わらないそのデザインを彼等は誇りを持って掲げている。
それから、仁王と丸井は朝練の準備をするべく部室に入り、マネージャーでも何でもない私は三年の先輩と話し終わった幸村くん達に近付いた。
「おはようございます、先輩」
「お、苗字か。おはよう」
立海テニス部の現部長さんである浜松先輩は朗らかに笑った。ちなみに彼は立海大附属中学出身であり、幸村くんと真田とは五年近く同じテニス部に所属する仲である。
「幸村くん、今日は何をすればいい?」
「ああ、まだ伝えてなかったね。うーん、そうだなあ。とりあえずドリンクと、あと溜まってるタオルの洗濯。朝はそれぐらいでいいですか?先輩」
「ああ。いつも悪いな苗字」
「いえいえ、自主的なことですからお構いなく」
にっこり笑って仕事を引き受けると、部室から仁王と丸井が出て来た。中学の時から愛用していた立海テニス部ジャージが小さくなり、高校になって新しく買った同じデザインのジャージもまた少々解れが出来始めている。
と、こちらに顔を向けた仁王が、ばびゅんと効果音の付きそうなスピードで飛んできた。ぐぇっと首が締まる。く、苦しい。
「浜ちゃんでも、名前ちゃんをたぶらかしたらゆるさんぜよ!!」
「ちょ、まさ、やめっ」
「仁王!先輩に向かって何という口を利いとる!!たるんどる!!」
「ははは、いいんだよ真田。仁王はほんとに苗字が好きだな」
ぎゅうぎゅうと抱きついてくる仁王を叩き、真田にパスをして謝らせる。が、この部長、かなりの温厚なため全く怒らない。幸村くんは何故か爆笑していた。
「じゃあ、まさ、頑張ってきてね」
「名前ちゃんに言われたら頑張るしかないナリ」
私が頼まれた仕事はマネージャー顔負けだ。それもまあ、仕方ない。テニス部に所属しないものの仁王について朝練に向かう内に、お人好しな私は四天宝寺に居たときにマネージャーをしていたもんだから、つい、雑用を買って出てしまったのだ。
何せ立海テニス部は昔からマネージャーを雇わず、自分のことは自分でするという決まりがあった。
けれどやはり男だけの部活。初めて部室を覗いたときは唖然としたのを覚えている。
何故か部長の浜松先輩と打ち合うことになった仁王を見つめ、隣に来た幸村くんを見る。
「苗字さん、苦労をかけてごめんよ」
「いや、全然構わないけど?でもやっぱりマネージャー雇った方がいいんじゃない。これを部員がやってただなんて、ほんと尊敬しちゃうし」
すると幸村くんは決まって困った笑みを浮かべる。困り顔でも彼は、とっても美人さんだ。いや、こんなこと本人に言ったらどえらいことになるんだけど。
「生憎、そういった子を雇う暇は無いんだよね」
「ふーん」
「まあ、苗字さんがやってくれるなら喜んで枠を作るんだけど」
にこにこと笑う幸村くんを見つめていると、近くのコートから猛烈なスマッシュ音。びっくりして振り向けば、あの温厚な部長が黒い笑みを浮かべていた。そういえばあの人、コートに入ったら腹黒くなるんだっけ。流石、王者立海の頂点。普段飄々としてる仁王が、あんなに苦戦してる。
「幸村くん、こうなるの予想してたからさっき爆笑してたんだ?」
「さあ?何のこと?」
神の子は爽やかに笑う。朝練後の仁王はぐったりしていた。
20111101 杏里