ひとつまみの夏
坊の我儘に疲れ始めた今日この頃。お世話係になって3週間が経とうとしていた。そんな俺も中学三年生なわけで、夏休み中に宿題が出ている。坊の世話をして宿題が出来ていなかった俺は、休みを貰って宿題に取り掛かっていた。
『…………』
つっても答え写すだけだけど。そんなに頭悪くねぇし、成績だって良い方。テストでもほぼ90点は取れてるし、この位は許して欲しい。写さねぇと終わらねぇ。
『……よし、後は国語と数学だけか』
残り2教科まで来た頃、少し休憩にするかと思い部屋を出る。そういや喉も乾いたな。なんて思って廊下を歩いていると、庭先に数人集まっていて、首を傾げながら近づく。
『どうしたんですか?』
「あ、あぁ、名前君…、悟様が…」
『坊?』
人の中心に居たのは坊と一人の女中だった。その女中の頬や体からは血が滴り落ち、坊はただ無表情に崩れ落ちた女中を見下ろしていた。
『大丈夫ですか!?』
すぐ様近付いて女中に反転術式をかける。俺の術式は大した事ないが、反転術式が使える。だから平凡な俺が坊の世話係に任命されたんだ。坊がいつ怪我をしても治せるように。
「…あ、りがとう、名前君、」
『いえ。…それよりこれは?』
傷が治った女中に話を聞く為にそう言うと、小さな声で零すように口を開いた。
「悟様に、呪力について教えていた時に…、」
どうやら坊の呪力が軽い暴走をしたようだ。10歳にして大き過ぎる呪力の使い方を坊はまだちゃんとは理解出来ていない。
「…………」
ジッとこちらを見ている坊の方へと視線を向け、女中に肩を貸してやり、他の人に任せる。反転術式をかけたとはいえ、すぐに元気になるかと言われたらそうじゃない。
『坊』
「…何だよ」
『謝りましたか?あの人に』
「は?何で俺が謝るんだよ」
坊は綺麗な造りをした顔を歪め、俺を睨み上げた。そして続け様に口を開いた。
「俺は加減したし、指導役のクセに雑魚なのが悪いんだろ」
『…………』
「俺に指導なんて要らねぇんだよ。自分より弱い奴に誰が教えを乞うんだよ」
確かにこの女中は坊より弱いし、呪力だって、術式だって微々たる物だ。けれど、それでもこの女中は坊に呪力の使い方を教えてやろうと思っていたわけで。
『…坊』
「弱ぇならでしゃばってくんなよ」
坊の前に移動して、アルビノの頬を右手で弾く。思ったよりもいい音がして、やり過ぎた、と思いながらも、呆然とする坊の肩に両手をかけて膝をつく。
「………何すんだよ」
『人を傷つけちゃ駄目だ』
「…あ?」
『優しい人を傷つけちゃ駄目だ。坊の力はそんな事の為にあるんじゃない。坊の力は、人を救う為の力だ』
「…意味分かんねぇ」
『坊は強い。呪力だって、術式だって…。六眼だってある。けど、だからって人を傷つけていいわけじゃない。そんなのは理由にはならない』
赤くなった頬に良心が痛みが、ここで叱ってやる大人が居ないと駄目なんだ。この屋敷で坊に逆らえる者なんて居ない。だから比較的に歳が近い、子供の俺が言わないといけない。
『…坊、悪い事をしたら謝る。それが当たり前なんだよ』
「……俺は、別に、悪い事なんて、」
『故意的であっても、無くても、坊は人を傷付けたんだ。なら、謝らないといけない』
「…………俺は、悪くないし」
唇を尖らせて眉を寄せる坊の顔は、多分分かってる顔だ。だけど、謝った事が無いんだと思う。いつも他の人が謝ったりしてたから。
『…坊、俺と一緒に行きましょう』
「……………」
『俺も一緒に謝りますから』
視線を逸らした坊は小さく、けれど確かに頷いてくれた。そんな彼の小さな体を抱き上げて医務室に向かったであろう女中の元へと向かう。
「…………」
俺の着物を握る坊は、もしかしたらまだ心の準備が出来ていないのかもしれない。歩みを緩めていつもの口調で声をかける。
『今日、俺休みでしたけど、ちゃんとご飯食べました?』
「……食った」
『野菜も?』
「オマエが作ったのにしか野菜出てこねぇし」
『俺、あと3日休み貰ってるんだけど…』
あと3日間、ずっと野菜を食べさせないつもりだろうか。この屋敷の人間は良い言い方をすれば、坊に甘いのだ。
『……着きましたよ』
「…………」
『……俺も居ます。大丈夫ですよ』
襖の前に坊を降ろして、軽く背中を押す。そもそも五条家に仕えている女中だ。怒ってもいなければ、どうも思っていない。ただこれは坊の人間としてのケジメだ。
「…………」
「…悟様?」
襖を開くと、医者に診てもらっている女中が居た。俺はもう一度、坊の背中を優しく叩くと、彼は俺の着物を軽く掴んで、小さく早口に言った。
「………悪かった」
「…いえ。私の方こそ、力不足で申し訳ありません」
悪かった、という言い方が何とも坊らしい。少し注意すべき何だろうけど、彼にしては頑張った方だ。ここで叱ってはいけない。褒めないと。
『すみませんでした。もし不調があったら、すぐ言ってください』
「ありがとう、名前君」
『いえ』
頭を下げて襖を閉める。しゃがみ込んで坊の頭を撫でると、彼は驚いた様に目を見開いていた。
『謝れて偉いです』
「…………別に」
『夜ご飯は特別に俺が好きなの作りますよ。何がいいですか?』
「……肉」
冷蔵庫の中にあったっけな…、と思い出しながら、適当に肉じゃがでもいいか。肉だし。と結論づけて坊と廊下を歩いた。周りでは蝉の声が響いていたけど、大して気にはならなかった。
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