路地裏でねぶそく
「本日は宜しくお願い致します」
『宜しくお願いします』
俺の前には余所行きの着物を纏った女性が居た。所謂、お見合いだ。小さい家とはいえ俺は苗字家の次期当主なわけで、いずれは結婚して子供を授からなければ苗字家が終わってしまう。
「後は若い者で…」
そう言って互いの母親は出て行った。夏の終わりかけとはいえ、正装の着物は死ぬほど暑い。出来れば早く終わらせたい。
「えっと、名前さんは高専でお仕事を?」
『はい。って言っても補助監督ですけど…、』
「自分も補助監督を目指して今勉学に励んでいる所なんです」
『…勉学?』
「私、今年で19歳で…」
『…………19歳?』
「高専で4年生です」
まさかの相手は未成年だった。確かに女性は16歳から結婚は出来る。けれど、まさか未成年が結婚相手だとは思わなかった。まぁ、結婚する時には成人しているだろうけど。やばい。思ったより混乱している。
『……まだ全然若いですよね?どうしてお見合いなんて、』
「……私の家系は力が弱いので、」
彼女は言葉を紡ぐ前に妙な間があった。この子の家にも色々あるのかもしれない。だからといって、まだまだこれからは楽しいことが待っている未成年の子が俺みたいなオジサンと結婚していいものか…。
『あの…、失礼ですが、恋人は?』
「……居りません」
『でも、19歳なら好きな人くらい…。婚約は決定していないですし…、断っても…、』
「いえ。私は…、」
何故かハッキリと否定した彼女に首を傾げる。知らない、初めて会った見ず知らずのオッサンとの結婚に前向きなのだろうか。俺なら迷わず断る。
「…名前さんは、私との婚約はお嫌ですか?」
『へ?』
瞳に涙を浮かべて少し俯く彼女に心臓が嫌な音を立てる。未成年を泣かせたなんて事になったら…。
『いっ、嫌じゃないけど…!』
「本当ですか…?」
『うっ、うん…!』
冷や汗を流しながらコクコクと何度も頷く。すると彼女は少し前のめりになってまた口を開いた。
「なら、結婚してくださいますか?」
俺がどうしようかと頭を必死に巡らせると、襖がスパーンッと大きな音を立てて開かれた。その瞬間、蝉の声が頭を占領した。
「結婚なんてさせるわけねぇだろ」
『ぼ、坊ッ…!?』
「ご、じょうくん…」
青筋を浮かべてサングラスを光らせながら現れた坊は彼女に目もくれず俺の胸倉を掴んで持ち上げた。そのせいで俺は立ち上がり、慌てて坊の手を掴む。
『ちょ、ちょっと坊…!?』
「おいテメェ…。俺が言った事忘れてねぇだろうな」
『いやっ、あのっ、』
「なに見合いなんかしてんだよ」
坊に掴まれた着物がギチギチと音を立て始める。本格的に坊がキレてる。このままではまずいと必死に笑みを浮かべる。
『とっ、とにかくっ、手を離してください。ね?坊』
「うるせぇ」
「五条君…!」
彼女は立ち上がって、俺の胸倉を掴んでいる坊の手を掴む。俺の為に…!なんて感動していたら、坊は彼女をギッと睨んで低く唸った。
「触んじゃねぇよ」
『坊、そんな言い方…!』
「名前との見合い取り付けたのだって俺に近付く為だろ。ストーカー女」
『………………へ?』
坊は俺の胸倉を離すこと無く、片手で彼女の手を払う。そして地を這う様な声で言葉を続けた。
「俺に振られたから次は名前に取り入る気かよ。悪ぃけど逆効果。名前に唾付けてんの俺だから」
「そっ、そんなっ、…私はただ、五条君の事が好きで…、」
「きもい。うざい。消えろ」
坊は視線を逸らしながら、心底嫌悪、という感じに言葉を吐いた。彼女は耐えきれなかったのか涙を流しながら部屋を飛び出してしまった。
『…………坊が好きだったの?…え、俺は?』
「好きなわけねぇだろ。俺に近付く為だっつったろ」
『えー…、』
首をガクリと落として項垂れると、胸倉を掴んでいた坊の手に突き飛ばされて壁と俺の背中が衝突する。痛い。痛いし、心も痛い。これが失恋…。俺はズルズルと座り込む。
『…なんてこった。俺の初恋が、』
「あ?」
ちょっと場を和ませる為に吐いた嘘なのに坊は瞳孔を開いて笑うと、俺の前にしゃがみ込んで、荒々しく俺の顎を片手で掴んで、唇に噛み付いた。
『んんッ!?』
突然の事に口を結ぶ事が間に合わず、舌が入ってくる。と思ったが、舌は入って来ず、何度も啄む様に唇が合わせられる。
『ん、…ぼ、…んッ、』
坊の肩に手を置いて押し返しても、その分体重をかけられる。唇を甘噛みされて頭がボーッとし始める。どれくらいキスが繰り返されたか分からない頃、俺は自ら舌を差し出していた。
『…ぼ、んっ、…ッ、』
「……かーわい、」
坊は小さく笑うと、俺の舌を絡め取った。俺はだらしなくもっと、もっと、と体を前のめりにさせ、首を伸ばす。
『…ん、…ぁ、…坊っ、』
「違ぇだろ、」
『さ、とるっ、…ッ、』
押し返していた手はいつの間にか快楽を耐えるように坊の制服を握りしめていた。唇の端からは唾液が溢れるが、ただただ気持ちよくて舌を合わせる。
「んっ、…気持ちいいの?」
『ぁ、…ン、…きもち、いい、』
ゆっくりと唇が離され、ふたりの間に銀色の糸がツーっと伸びて途切れる。それを何も考えられずに眺めていると、坊の手がいつの間にか着物の間に差し込まれていた。いつの間にか帯を解いたんだろう、なんて他人事の様に思っていると、坊が俺の耳元に顔を寄せ、艶っぽい声で言った。
「俺とのキス、気持ちよかった?」
『き、もちよかった、』
「俺と付き合えば毎日してやっけど?」
『ま、いにち、』
毎日この気持ちよさを味わえる。頭の中はそれだけでいっぱいだった。坊は俺の耳の縁をなぞる様に唇を滑らせた。
「好き、」
『さ、とる、』
「名前が好き。勘違いとかじゃねぇ。本気で好き」
縁を辿っていた唇は首筋に落ちて、熱い舌が俺の首に熱を移す。
「好き、付き合って。俺を選んで」
『悟…、』
「名前は?俺の事嫌い?」
その聞き方は狡いだろ。だって、俺が悟の事嫌いなわけ無ぇのに。俺の心中を知ってか知らずか…、いや、悟の事だから分かっててやるんだ。俺の頬やこめかみ、額にキスを落として、酷く甘い表情でもう一度、言った。
「…俺の事、好きだろ?」
熱の籠った視線で射抜かれ、唇に触れるだけのキスが落とされる。本当に狡い。そんな表情で、声で、優しく触れられたら頷く事しか出来ない。
『…、悟が、好き、』
「…ん、俺も名前の事超好き」
瞼を閉じると悟の顔が寄せられてゆっくりと確かめるように唇が重なった。外は暑くて耳が痛くなるほど蝉も鳴いているのに、何故かそれが心地良かった。
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