涙はそんな色だったか





「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空…」





お坊さんが唱えるお経が右から左へと抜けていく。真っ黒な喪服に身を包んだ俺は、周りからはどう見えているんだろうか。




『…………』





21歳の春、苦楽を共にしていた同期が死んだ。





「お兄ちゃん!!お兄ちゃんッ!!」






高校生だろうか、女の子が棺に縋り付いて泣いていた。その子は俺の見た事のある女の子だった。亡くなった同期がよく、可愛いだろ?俺の妹なんだ。と言っていた。その顔は呪術師なんかじゃなく、ただひとりの兄の顔だった。





∵∵






「……名前?」

『…あ、坊』





その日は寮に帰る気がせず、実家に戻っていた。なぜ俺の家に坊が居たのか分からないけど、聞く気にはなれなかった。






『すみません…、何か私に用事ありました?』

「いや、特に無ぇけど…」

『ちょっと私、疲れちゃって…、明日でもいいですか?』

「…………」





会釈して横を通り過ぎようとした時、腕を掴まれる。流石の俺もこの落ちている気分で坊の相手をするのは難しい。同期が死ぬのは思っていたよりも堪えたようだ。






「……来い」

『ちょっ、坊ッ…!』






手首を掴まれ廊下を進む。坊らしくない弱い力で何も言えなくなってしまった。
坊は俺の部屋に何も言わず入り襖を占めると振り返り、俺の体を抱きしめた。まるで女性に触れるような柔らかい手つきに目を見開く。






『………坊?』

「……俺がそういうの苦手なの分かんだろ」

『………………知ってます』






坊は坊なりに俺を慰めようとしてくれているんだ。けど坊は言ってた通り、苦手だから。だから、こうして態度で示してくれたんだ。





『………ありがとうございます』






小さく呟いて坊の背中に腕を回すと、彼の体がピクリと跳ねる。手を離そうとした時、少し慌てた様な坊の声がした。




「違ぇッ!嫌とかじゃねぇから…、そのままで、いい…、」





坊の言葉に、嫌だろうに申し訳ない、と思いながらも、今は人肌を離したくなかった。





『………同期が、亡くなったんです』

「…高専の?」

『はい。…すげぇ、良い奴だったのに…。呪術師にならなければ、きっと人を救う様な仕事をしていた筈なのに…、』






あいつの夢は、警察官になる事だった。けれど、呪霊に妹が悩まされ、高専に来た。あいつが死んだのも、人を庇って呪詛師に腹を刺されたからだと聞いた。
誰よりも優しい奴だった。誰よりも人想いだった。誰よりも生きていなければいけない人だった。






『……呪術師って、何なんですかね、』






棺から見えたあいつの顔はまるで作られた人形の様に血の気が無く、火葬された後の骨は硝子のように簡単に割れた。人形の様に動かなくなったあいつは数日前まで元気に笑っていたのに。





『………坊、』

「…なに」

『呪術師なんかにならないでください』






言ってはいけないと分かっていた。けど、今の俺は、俺じゃないから。ただの独り言だから。どうか許して欲しい。






『……お願いします。…今だけでいいんです、』






今だけでいいから、ならないと言ってくれ。呪術師なんかならないでくれ。未だにあいつの妹の叫びが頭から消えてくれない。耳から離れてくれない。俺は坊が死んだ時、平静を保っていられるだろうか。


坊も、いつか死ぬのだろうか。







「……俺は呪術師になる」

『……………』






ハッキリと語尾を下げた、断言した言い方だった。分かっていた。坊は俺なんかとは違って、呪術界を背負って立つ人だ。呪術師以外に道は無い。それが五条家に産まれた、六眼と無下限を持った者の宿命だ。





「けど俺は死なない」

『…そんな保証、どこにも無いですよ』

「だって俺強いし」

『…………それでも、人は死ぬんですよ』







俺よりも強い坊は、俺とは見えている世界が違う。次元が違う。背負ってる重みが違う。でも、…それでも、俺は、





「確かに最強だけど俺だって人間だし、いつか死ぬかもな」

『………坊、』

「ヘマするかもしれねぇし、歳食えば死ぬ」






何とでもない様に言葉を続ける坊は身体を少し離すと、俺の頬を両手で包んで視線を合わせて言葉を紡いだ。





「けど、名前より後に死んでやる」

『…………』

「何があっても名前より先に死なねぇ。置いて逝ったりしねぇ。約束する」






その言葉に目を見開いて宝石のような輝きを持つ坊の瞳を見つめる。呪術界に絶対なんて無いし、いつ死ぬのかなんて分からない。強くても死ぬ奴は死ぬし、弱い奴でも生き延びる奴もいる。
けど、何故か坊の言葉は俺の心にストンと落ちて、信じられた。あぁ、この人は俺より先に死なないんだって。確証が持てた。
それはきっと、坊が五条悟だから。






『……そこは、絶対に死なない、とかじゃないんですか』

「はァ?そんな奴いたら人間じゃねぇだろ」

『現実主義者の坊らしいですね』






けれど、それが心地良い。死なない、なんて曖昧な言葉よりも、俺より先には死なない。この言葉の方が余っ程嬉しい。
人はいずれ死ぬものだから。永遠に生きる人間なんていないから。どんなに強くても、最強でも、人は死ぬ。それがこの世界の唯一の絶対。






『……俺より先に死ぬなよ。悟』

「指切りでもしてやろうか?」

『…いいな、それ』






俺よりも少し大きくなった手のひらが俺の手のひらを包んで小指が繋がれる。本当に大きくなった。





「指切りげんまん、嘘ついたら…、嘘ついたらどうすっかな…」

『嘘ついたら絶交でもするか』

「…ガキくせぇ」

『いいだろ。たまにはガキに戻ったって』

「……そうだな」







フッと鼻を鳴らして笑った坊は、繋がれた手を上下に振った。こんなのはただの口約束。それでも、俺には十分だった。



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