月の裏側を触る





『…あれ?』

「あ、おかえり〜」

『今日は友人とご飯に行くからって言いましたよね?』

「聞いたよ〜。でもそろそろ帰って来るかなと思って」

『私ご飯食べましたよ』

「僕まだなんだよね〜」

『知りませんよ』






友人と夜ご飯を食べてほろ酔い気分で家に着くと、私の部屋の前には五条さんが立っていた。本当に人の予定を気にしない人だ。





『自分の家で食べてくださいよ』

「ひとりじゃ寂しいじゃな〜い」

『知りません』

「相変わらず冷たい…」





泣いたフリをする五条さんを退けて鍵を差し込んで回す。けれどなんの感触もなく首を傾げる。




「もしかして鍵開けっ放しで出かけたの?不用心だねぇ」

『……閉めたはずなんですけど、』






とにかく扉を開けて部屋を確認する。特に変わった様子は無く安心する。鍵はきちんと閉めなくては、と肝に銘じる。すると当たり前のように五条さんが部屋に入って来るから眉を寄せる。






『……………』

「何食べようかな〜」





棚の中のカップ麺を漁る背中を蹴り飛ばしてしまおうかと思ったけど、酔っているし、水を飲むのが先だと完結してコップを持って水を注ぐ。






「今日のコース美味しかった?」

『はい。お肉もすごく柔らかくて、野菜も美味しかったです』

「でも苗字さんってさコース料理嫌いじゃなかった?」

『すぐにお腹いっぱいになって損した気分になるので得意では無いです』

「しかもお酒も飲んでるし」




五条さんの右手にはカップ麺が握られていて、左手が私の頬を撫でる。お酒のせいで顔が少し赤かったのだろうか。アルコールのせいで頭が回らずそのままにしてしまったが、すぐに我に返って頬に当てられた手を払う。




『触らないでください』

「えー?」

『異性に無闇矢鱈触れない方がいいですよ』

「苗字さんだからだよ」

『……いつか女性に刺されますよ』

「大丈夫だよ」






五条さんはフッと口元を緩めて、ゆっくりと言葉を紡いだ。





「僕最強だから」

『……はぁ…?』






溜息混じりに相槌を打ちながらコップを洗って元に戻す。その間に五条さんはお湯を沸かしているようだった。まるで自分の家の様な寛ぎ様だ。






『私そろそろお風呂に入って寝たいんですけど』

「入ってくればいいじゃん」

『……』

「心配しなくても苗字さん相手に盛ったりしないし、僕お金あるから盗んだりしないよ」

『………』




ジト目で睨んでも彼は何とでも無いようにお湯を注いでテレビを見始めてしまった。深く溜息を吐いてお風呂場へと向かう。確かに五条さん程顔が整っている人が私とどうこうなるとは思えない。自意識過剰もいい所だ。





『…………いつまで居るんですか』

「あ、出たの?おかえり」






長めに入ったつもりだったのに五条さんはまだリビングに居た。いい加減に帰って欲しい。私だってひとりで居たい日だってあるのだ。





『いい加減に帰ってください』

「えー…。まぁ仕方ない。帰ろっかな」





よっこらしょ、と言って立ち上がった五条さんは私の頭をポンポンと2回撫でると部屋を出て行った。






『……変わった人だなぁ』






五条さんが腰を下ろしていた場所にボスリと音を立てて座る。お酒を飲むとどうも疲れる。瞼を閉じてフーっと息を吐く。深呼吸すると、ふわりと自分の香りでは無い匂いが鼻を擽った。





『…………』







自分の家に誰かの匂いがする事に眉を寄せる。仕方なく立ち上がってスプレー型の消臭剤を部屋に振り撒く。自分は潔癖だっただろうか。元彼の時はこんな事なかったはずなのに。何故か五条さんの香りは落ち着かない。





∵∵∵






『あ、こんにちは』

「苗字さんお仕事帰り?おかえりなさい」






仕事から帰って来ると、大家さんが買い物に行くのか、大きめのバッグを持って私とすれ違った。





「最近顔色がいいみたいねぇ」





大家さんは優しげな笑みを浮かべてそう言った。五条さんが来るようになってから、きちんとご飯を食べるようになった。前までは適当に済ませていたり、食べなかったりした時もあった。そのおかげか、ここ最近は体調がいい。
けれど、五条さんは忙しいのか数日姿を見ていない。別に何も困らないし、彼に何か特別な感情を持っているわけでも無いからそんなに気にならない。でも突然来られても迷惑だ。大家さんなら何か知ってるかもしれないと思い、口を開いた。






『この最近、五条さんを見ませんけどお仕事が忙しいんですかね』

「五条さん?」

『はい。私の隣に住んでいる背が高い男の人です』





大家さんは首を傾げて考える素振りを見せた。この様子だと大家さんも何も聞いては居ないようだ。とにかく急に来るのをやめて欲しい。家に何かしら食事があると思っているなら大間違いだ。





「あの、苗字さん、」

『はい?』





大家さんは困った様に眉を寄せて、言葉を続けた。その言葉が私にとっては理解し難いものだった。





「苗字さんの隣の部屋はここ数年ずっと空き部屋だけど…」

『……え?』

「もしかして佐藤さんの事かしら?」

『さ、佐藤さんは、逆隣で…、』

「苗字さんの隣は佐藤さんだけで、もう片方は空き部屋だけど……」






大家さんが嘘を言っているようには見えなくて余計に混乱する。なら五条さんは?あの人は一体なんだというのか。





「もしかして不審者?警察に相談した方がいい?」

『……いえ、私の、勘違いです、…すみません』

「そう?」





混乱する頭で必死にそう言って会釈をする。覚束無い足取りで、自分の部屋を目指して歩く。






『………どういうこと、』






五条さんが住んでいる階は違うのだろうか。そこそこ大きな建物だ。大家さんが把握しきれないという事もあるかもしれない。





『…………五条、さん』

「やっほー!久しぶり〜。元気だった?」





私の部屋の前には数日振りに見る五条さんが扉に背中を預けて立って、ヒラヒラと右手を揺らしていた。





『………』

「どうしたの?変な顔して」






五条さんはキョトンと首を傾げて、よっ、と言いながら扉から背を離した。





「お腹空いたねぇ〜。お寿司食べたくない?僕の奢りで出前取ろうよ」

『………あの、五条さん、』

「ん?なに?」





言えばいい。なのに唇は震えて動かない。言ってはいけない。そう本能が言っているようだった。背中に冷や汗が伝ったのが分かる。足先の感覚がない。





「苗字さん?どうしたの?」

『………五条さんは、』

「僕がどうかした?」

『………』





自分の息が荒くなるのがわかる。何を怖がっているのか自分でも分からない。けれど体は今すぐ逃げろと告げている。階が違うだけ。五条さんはあまり帰って来ないから大家さんが知らないだけ。





『………』






本当に?




五条さんの髪色は酷く珍しい白髪はくはつ。そしてこの身長、服装、顔の整い方。記憶に残らないわけが無い。1度見れば忘れないはずだ。




「ねぇ〜。本当にどうしたの?」





私の顔を除き込むように腰を折った五条さんに、1歩後ろに下がる。すると五条さんはフッと表情を消して背筋を伸ばした。






『……五条さん、』

「…………」






グッと唇を強く噛んで、手のひらを握りしめる。視線は足元に向けたまま、震える唇でゆっくりと言葉を吐き出す。ただの勘違いだ。大丈夫。なにも怖い事なんて無い。






『……私の隣の部屋は、空き部屋だと、聞きました、』

「……勘違いじゃない?僕あんまり帰って来ないから」

『…でも、五条さんの見た目なら、1度見たら忘れないと思うんです、』

「………」






顔を上げて、懇願する様に言葉を続ける。どうかただの勘違いだと言ってくれ。そんなわけないと笑ってくれ。お願いだから。




『五条さんは、一体、…何者なんですか、』

「………ねぇ、」

『はい、』





五条さんは目元を覆っている目隠しを下へとズラすと、薄ら笑みを浮かべていた。






「1度見たら忘れないって言ったよね」

『……はい、』

「忘れちゃってるくせに、説得力無くない?」

『……は?』





五条さんはカツンと音を立てて私に近付く。私は無意識に足を引く。けれど足の長さが違いすぎた。彼はすぐに私の目の前に立つと、目を細めてまるで芸術品の様に綺麗な笑みを浮かべて、長い指で私の額に触れた。






「気付かなければ、幸せになれたのにね。名前」

『…な、んで、私の名前…、』

「知ってるよ。名前の事ならなんだって」






遠のく意識の中、五条さんの言葉が脳を支配した。私は1度だって彼に名前を教えた事なんて無かったのに。膝が崩れ落ちそうになった時、五条さんの香りが鼻腔を擽った。そこで私は気付いた。どうして五条さんの香りが落ち着かなかったのか。




本能が危険だと告げていたからだ。



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