触れてはいけないなめらかな場所





『あ、おはようございます』

「あら苗字さん、おはよう」




私が住んでいるマンションのオートロック前の掃除をしてくれている大家さんに挨拶をして仕事へ向かう。私は東京の外れでしがないOLをしている。今の仕事に不満は無い。人も良く、給料、休み共にとてもいい環境だ。まぁ、元々働いていたのがブラックだったからかもしれない。





「苗字さんおはよー」

『おはようございます』




電車を経て仕事場に着き、制服に着替えパソコンの前に腰を下ろす。性格上、早めに来ていないと不安になる私は仕事開始時間より20分は早めに来ている。





「んー!やっと終わりましたね」

『そうだね。今日も結構仕事溜まってたね』




仕事を終えて、駅を目指す。給料が以前より上がったおかげでそこそこ良い所に住めるようになった。働いている時間は短いというのに。母や周りの友達からも女の子なんだから安くてもオートロックが付いているところにしなさい、と再三言われてきた。





『………あれ、』

「え?」






部屋の近くまで来て、私の部屋の前に誰かが居る事に気が付いた。随分と背が高い様だ。それに髪色が白い。少し身構えると振り返った男の人は目隠しをしていた。私は逃げる為に足に力を入れると、その男の人は首を傾げて、不思議そうな声を上げた。





「あれ?ここって君の家?」

『………』

「じゃあ僕の家ってこっち?帰ってくるの久しぶりで分からなくなっちゃった。怖がらせちゃった?ごめんね」

『はぁ…?』





溜息混じりで返事をすると、男の人はヘラリと笑った。この人の声はどこか人を安心させるような声だった。だから私も少し安心してしまった。





「僕の部屋こっちか」

『た、多分…』

「いや〜、怖がらせて悪かったね。お詫びにこれあげる」

『え、』




手のひらを掴まれて無理矢理握らされたのは、イチゴ味の飴だった。包み紙は可愛く包装されていて、大きな手から渡されたせいか、少しだけ小さく見えた。





「僕、五条悟。教師やってます」

『…あ、…えっと、苗字、です』

「よろしくね。まぁ僕あんまり帰って来ないから会う事も無いと思うけど」

『そ、そうですか…』





ヒラヒラと右手を振って部屋の中に消えて行った五条さんを何となくボーッと見送ってから、私も自分の家の中へと入った。






『…隣の人、住んでたんだなぁ』





靴を脱ぎながらポツリと言葉を零す。あの口ぶりだと本当に家に帰って来たのは久しぶりみたいだ。怪しい格好だったけど、教師らしい。東京とは怖い場所だな、と再確認した。



∴∴


「ありゃ」

『…どうも』

「また会ったね」





いつも通り仕事終わりに家に帰ると、丁度五条さんも帰って来た所だった様だ。また真っ黒な格好をして目隠しまでしている。






「苗字さん料理得意?」

『は?……いえ。得意じゃないです』

「あ、やっぱり?」

『………』





突然の質問に呆気に取られながらも返すと、返って来たのは何とも失礼な答えと笑みだった。ヘラヘラと笑いながら五条さんは言葉を続けた。





「何となくそうかな〜って。だって見た感じ苗字さんって仕事人間でしょ?恋人と仕事を天秤にかけたら仕事取る人でしょ?」

『……それが、普通だと思うんですが』

「今時の若い子って言ったら、恋人第一でしょ」

『若い子って…』





五条さんは見た感じ20代前半って感じだ。まぁ目隠ししてるから、口元の肌しか分からないけど。私の言いたい事が分かったのか、彼は首を傾げてひょうきんに言った。






「僕28だよ」

『………え、』

「おぉ、いい反応だね。もしかして20前半だと思ってた?残念だったねぇ」

『………』





まさかの私より歳上だった。歳上と言ってもそこまで変わらないけど。なんとも見た目詐欺だ。




「もしかして仕事優先し過ぎて彼氏に振られたことある?」

『………』

「図星だ?」





本当に失礼な人だ。ただの隣人のプライベートにズカズカと。しかも当たっているから尚更腹が立つ。元彼との別れはその通りだ。彼の最後の一言は“名前って俺が居なくても全然平気そうだね”だった。当たり前だ。恋人と言っても赤の他人。居なくても生きていけるし、死ぬなんてありえない。






『……仕事を優先する事は悪い事ですか』

「別に良いんじゃない?ただ恋人からしたら寂しいよね。苗字さんは彼氏が仕事優先してたら寂しくないの?」

『大人ですから』

「ふーん。捻くれてるね」





少し…、大分イラッとして眉を寄せて自分の部屋の扉に手をかける。すると五条さんはカラカラと笑って思っても無いだろうに謝った。




「ごめん、ごめん。怒らないでよ。お詫びにご飯ご馳走するよ」

『結構です!』

「僕、自分で言うのも何だけど料理上手いよ?高校時代は寮生活だったから」

『自分で作りますから大丈夫です。苦手なりに!』

「うっわ、気にしてる。意外と子供っぽいんだね」

『失礼します!!』

「怒らせちった」






部屋の扉が閉じるまで五条さんの笑い声が聞こえて、酷く腹が立った。怪しくて性格も悪いなんて最悪だ。





∴∴




『……げっ、』

「げっ、って酷くない?」

『あまり帰って来ないって言ってませんでした?』

「繁忙期終わって少しだけゆっくり出来るんだよね」

『チッ…』

「え、舌打ち?酷くない?」

『繁忙期って…。教師なのにそんなのあるんですか?』

「僕が働いてる学校少しだけ特殊でね」

『へぇー』

「聞いておいてへぇーは酷くない?」

『お疲れ様でした』

「ちょちょちょ」

『…なんですか』




部屋に入ろうとしたら五条さんに腕を掴まれた。相変わらず背が高い。というか離して欲しい。私はお腹が減ったのだ。




「ご飯食べさせて」

『は?』

「作るの面倒…、苗字さんの手料理が食べたいなぁ」

『面倒って言ってるのハッキリ聞こえてますから』

「いいじゃーん!ご飯作ってよー!」

『ちょっと、騒がないでください!』






深く溜息を吐いて、本当にこの人は28歳なのだろうかと疑問が生まれる。仕方なく家の扉を開いて部屋の中へと招き入れる。が、靴を脱ぐ前に五条さんに声をかける。




『ちょっと待ってください』

「え?なに?」

『身分証、見せてください』

「…へ?身分証?」

『知らない人を家に入れたくないので』

「知らない人って…」





ブーブー言いながらも見せてくれた身分証に目を通す。しっかり年齢は28歳な様だ。そして私は写真を見て目を見開いた。






『………人間国宝?』

「人間国宝?なにが?」

『目隠し取ってもらっていいですか?』

「なに急に。まぁいいけど」






そう言って五条さんは目隠しを取った。その顔は写真と同じ、人間国宝級の整い方だった。




『………帰ってもらっていいですか』

「なんで!?」

『私の家、イケメン入れないんです』

「そんな家聞いた事ないけど!?」





何処ぞの誰かに刺されるのは御免だ。今すぐ出て行って欲しい。イケメンと関わるとろくな事がない。関わったことないけど。





『と、言うわけでお帰りください』

「嫌だ!ご飯食べるまで帰らない!」

『…………』




玄関で膝を抱えてしゃがみ込む28歳に私は本気で引いた。けれどきっと世間では許されるのだろう。なんせ顔がいいから。





『………卵かけご飯でいいですか』

「苗字さんもそうならいいよ」

『いえ。私は普通にお肉焼きますけど』

「何で!?」




騒がしい人だな、と思った。けれど、久しぶりに誰かが家に居ることに少しだけ心が踊ったのは私だけの秘密だ。



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