幸いは降りつもる粉雪のように(完)
「……苗字さんは、僕の事本当に好きなんだね」
『………は?』
「だって、じゃなかったら里香ちゃんの事でこんなに悩んでくれないでしょ?」
口角を上げて笑みを浮かべた乙骨くんに私は眉を寄せて奥歯を噛み締める。どうしてこの状況で笑っていられるのか。
『…誰だって、好きな人の一番になりたいと思うのは普通でしょ』
「うん。だから僕の一番は苗字さんだし、苗字さんの中の一番は僕であって欲しい」
『……嘘つき、』
「本当だよ。僕は苗字さんが好きだよ」
穏やかな声でそう言って乙骨くんは私の目尻を撫でて涙を拭った。そしてゆっくりと噛み締めるように言葉を紡いだ。
「それに、こうやって僕の事を考えて、悩んで、ヤキモチまで焼いて…、」
乙骨くんはふわりと笑って愛おしそうに私を見た。甘過ぎる笑みに目を見開くと、彼は私の肩に額を当てて柔らかく言葉を続けた。
「より一層、好きになっちゃった」
『……でも、私は、』
「好きだよ。苗字さんの事が大好き」
私の背中に腕を回して蜂蜜を溶かした様な甘い声で言葉を紡ぐ乙骨くんに目眩がした。
「いつから好きなのかとか、分からないけど…。気付いた時には目で追っちゃうし、今何してるかな、とか考えちゃうんだ」
『…乙骨くん』
「触れたいと思うのも、嫉妬しちゃうのも苗字さんだけなんだ。里香ちゃんに嫉妬しちゃってる苗字さんも可愛いけど、やっぱり笑って欲しい」
あやす様に背中を叩かれて目を細める。駄目だ。このままじゃ、絆されてしまう。なのに私の腕は勝手に彼の背中に動いてしまう。
「僕に苗字さんを、愛させて」
『………』
「苗字さんの一番を僕に下さい」
『……そしたら、乙骨くんの一番を、私にくれる?』
震える声でそう聞くと乙骨くんはクスリと笑って私の顔を覗き込むとゆっくりと唇を合わせた。離れて最初に見えたのは彼の優しくて甘い笑顔だった。もう駄目だ。こんなの絆されるなって言う方が無理。
「僕の一番は惚れた時から苗字さんの物だよ」
『…………私の一番も、あの日からずっと、乙骨くんの物だよ』
乙骨くんの背中に腕を回して小さくそう言うと、彼は一瞬目を見開いて、子供の様に無邪気に、嬉しそうに笑った。
∴∴∴
「名前〜、そろそろ帰るよ〜」
『あ、五条先生』
乙骨くんと想いを通わせて、ちゃんとしたお付き合いが始まって3日目の夜に五条先生が乙骨くんが拠点にしている建物に姿を現した。
「あら?随分と仲良くなったみたいで」
『……言い回しに悪意を感じますけどスルーしますね』
床に腰を下ろしている私の後ろには乙骨くんが居た。後ろと言っても彼の膝の上に居るから厳密には下かもしれない。
「明日の朝イチに帰るからね」
「………」
「首振っても名前は帰るからね憂太」
乙骨くんは私を後ろから抱きしめるとフルフルと首を振った。交流会も始まるし流石に帰らないといけない。もちろん寂しいけど。
「…嫌です。苗字さんは帰りません」
「珍しい憂太のワガママは叶えてあげたいけどそれは駄目」
「……………」
ジト目で五条先生を睨む乙骨くんの髪を撫でると、彼はいじけた様に私の肩口に額を擦り付けた。随分と可愛らしくなったものだ。
「とにかく!明日の朝イチだからね!」
『分かりました』
「憂太も名前に無理させ過ぎないように!腰が痛くて寝坊なんて許さないからね!」
そう言って出て行った五条先生に首を傾げると、乙骨くんは少し居心地が悪そうにしていた。
『五条先生は何が言いたかったのかな?ベッドだってあるし腰を痛めたりしないのに…』
「………そうだね」
何処か歯切れの悪い乙骨くんに首を傾げると額に唇が落とされる。
「…最初の日に手を出さないって言っからね。ちゃんと守るよ」
『…………………へ!?五条先生が言ってたのって、そういう事…!?』
言葉の意味を理解して途端に恥ずかしくなった。乙骨くんはそんな私を見て目を細めて笑った。その瞳が酷く甘くて優しいから心臓が大きな音を立てる。
『…別に、手出されても、いいですけど、』
「駄目」
乙骨くんはそう言うと額を合わせて私の頬を右手で包み込むと親指でスリスリと撫でた。
「ちゃんと大切にしたいんだ。それに五条先生の言葉でっていうのが少し嫌だ。名前ちゃんが他の男の人の言葉に影響されてるのがちょっと妬ける」
『他の男の人って、五条先生だし…。………名前で呼んだ?』
「うん。……嫌だった?」
子犬の様にキュルンと瞳を輝かせる乙骨くんにグッとたじろぐ。そんな顔されたら断れないし、名前呼びは素直に嬉しい。
『…嫌じゃ、ない、』
「良かった…」
安心した様に微笑むと、乙骨くんは何かを促す様にキラキラとした瞳で私を見た。
「……………」
『………………』
「名前ちゃん」
『………ゆ、…憂太、くん、』
麺と向かって呼ぶのが恥ずかしくて少し声が裏返ってしまった。それも恥ずかしくて両手で顔を覆うとすぐにその手を掴まれて黒翡翠の様な瞳と視線が交わった。
「………可愛い」
『…憂太くん、も、かっこいい、よ』
「僕、名前ちゃんにかっこいいって言われるの好きなんだ」
そんなのいつも思ってる。どんな時だって憂太くんはかっこいい。なんて心の中で思っていると不意に唇が重ねられる。
「……今度僕が日本に帰ったら指輪探しに行こうか」
『付き合ったばっかりだよ…?』
「長さなんて関係無いよ。……それとも名前ちゃんは僕と別れる予定があるの?」
唇を尖らせて頬を膨らませる乙骨くんに慌てて首を振る。すると彼は力を抜いた様に笑って私の左手に指を絡めた。
「里香ちゃんとの指輪は首にかけようか」
『…本当にいいの?』
「え?」
私の問に憂太くんはキョトンと首を傾げて、私の左手に視線を落として薬指を撫でた。
「里香ちゃんだって分かってくれるよ。ただの遊びならきっと怒られちゃうだろうけど…。でも僕は名前ちゃんの事が大好きで、心の底から愛してるから」
『………』
「だから、僕に贈らせて?特別な、大切な指輪」
『………ありがとう、』
「…それは僕の台詞だよ」
必然の様に重なった唇はとても温かくて優しかった。心臓の辺りが大きな音を立てたけど、前とは違って幸せな音だった。