私たちこんなふうに満ちたりたかった
『…どう、して、』
「…苗字さんが、苦しそうだから、」
『私が苦しそうだと…、何で乙骨くんまで、苦しそうな顔するの…、』
乙骨くんは私の頬を両手で包み込むとポロリと涙を流した。彼の後ろを見ると呪霊はもう居なくて。そして五条先生も私と乙骨くんの髪を何度か撫でると姿を消してしまった。
「……どうして、苗字さんは、泣いてるの?」
『私は…、』
愛されたかった、乙骨くんに。貴方の愛情が欲しかった。彼女に向けていた愛情の一部だけでも。彼女に向けていた笑みをむけてほしかった。その瞳に私を映して欲しかった。代わりじゃなくて、私を。
『……好きな人に、見て欲しかった。代わりじゃ、嫌なの、』
「………」
一度口を開いてしまえば後は簡単だった。堰を切ったように唇が音を響かせた。膝が震えて、ゆっくりと地面に膝をつく。すると乙骨くんもつられたように膝をついて涙が地面に落ちた。
『代わりでもっ、良かったはずなのに…、隣に居られれば、それで良かったのに…、……彼女に向けている瞳が大好きで、羨ましくて…、…苦しいッ…、』
「……苗字さん、」
『本当に好きなのっ…、大好きっ…、だからっ、苦しいっ、』
私の言葉に乙骨くんは顔を歪めてグッと唇を噛んでいた。そして彼は私を拒絶する言葉をやっと言ってくれた。
「……ごめん、」
『ーッ、』
「ごめんね、…ごめん、」
前髪が分けられた彼の顔は以前よりもハッキリと表情が見えた。眉にはシワが寄っていて苦しそうにはらはらと涙を流していた。前髪も戦いのせいか、少しだけ崩れていた。
「…ごめんね、…分かってたのに…、僕は、」
『………乙骨、くん、』
彼も苦しかったのだろうか。二度とは会えない彼女に思いを馳せて。私なら耐えられないかもしれない。他の女の人と重ねてしまいたくなる程、彼の心は限界だったのかもしれない。彼の以前より長くなった前髪を耳にかけてあげると乙骨くんは、私を見てゆっくりと唇を重ねた。本当に残酷な人だ。でもこの行為を嬉しいと思ってしまっている私は、酷く滑稽だ。
『……乙骨くん、』
「…分かってたんだ、本当は、」
『…………』
「……苗字さんが、伏黒君の事が好きなの、」
『…………………………………ん?』
「…え?」
突然の言葉に流れていた涙が止まった。この重い雰囲気の中、素っ頓狂な声を上げた私に流石の乙骨くんも首を傾げていた。
『……え、…えっ、私って伏黒くんが好きなの?』
「……え?…ち、違うの…?」
『は、初耳…』
「………へ?」
ふたりして固まり、ゆっくりと確かめる様に自分の心に聞いてみる。私って伏黒くんが好きなの?…いや、私が好きなのは乙骨くんだ。なのにどうして乙骨くんの中の私は伏黒くんが好きってなってるの?
『た、確かに伏黒くんの事は好きだけど、それは後輩としてっていうか…、弟みたいな、家族愛とか、後輩を可愛がりたいみたいな…、そんな感じで…』
「…………ぼっ、僕の、勘違い…?」
『う、うん…、』
乙骨くんは目を見開くと、言ってはなんだけど間抜けな顔をしていた。少しして我に返ったのか彼は少し不機嫌そうに眉を寄せると私の両手を包み込んで正座をするから私もつられて正座をする。
「……なら、苗字さんの好きな人って、誰なの?」
『………え、』
「昨日話してた虎杖君?それとも狗巻君?」
『え、いや、ちがっ、』
「なら五条先生?」
何故か少し怒った様な顔をしている乙骨くんに、私が悪い事をしたような気分だ。でも両手を掴まれているから逃げる事は出来ないし、そもそも特級の乙骨くんから逃げるなんて私には土台無理な話だ。
『………私が、好き、なのは、』
「……………うん、」
『……お、乙骨くん、…だよ、』
「……………………おっこつくん?」
『う、うん…、』
頷くと乙骨くんは首を傾げて口を噤んでしまった。やっぱり困らせた。伝えない方が良かったのかもしれない。そう俯きそうになった時、目をグルグルと回しだした乙骨くんが可笑しな事を言い始めた。
「…………乙骨、…誰さん?」
『えぇ…!?』
「どこの乙骨さん?乙骨なんて名字多くないから下の名前さえ教えてもらえれば…」
『おっ、乙骨くん…!?大丈夫!?』
「出来れば漢字とか教えて貰えると処しやすくなる」
『自分を処すつもり…!?』
未だに混乱しているのか乙骨くんは私の右手を離すと落ちていた小枝を持たせて、地面に書くように促した。巫山戯ているのかと思ったけど、彼の瞳は酷く真剣だった。
『……この、乙骨憂太さん、なんですけど、』
「……漢字も僕と同じって事は実質僕みたいなものだよね?」
『実質も何も、乙骨くんだよ…』
苦笑を浮かべながら答えると乙骨くんはボーッと私の書いた名前を眺めて、少しするとボンッと顔を赤くした。その事に目を見開くと彼はワタワタと手を動かせて右手で顔を覆ってしまった。
『乙骨くん…?』
「ちょっ、ちょっと待って…!」
『大丈夫…?顔真っ赤だけど…、』
「だっ、大丈夫…!大丈夫だから少し見ないで…!」
そう言って俯く彼の耳は真っ赤に染まっていた。思ってもしなかった反応に首を傾げていると、落ち着いたのか乙骨くんはまだ少し赤い顔のまま私の目を真っ直ぐと見た。
「…苗字さんは、伏黒君じゃなくて、僕が好きなんだよね?」
『…うん』
「それは、弟としてとか、同期としてじゃなくて?」
『……うん、』
「…男として、僕の事が、好き?」
『………うん』
素直に頷くと乙骨くんはハーっと深く息を吐き出してしまった。やっぱり代わりとして隣に置いていた人間に恋愛感情を持たれるのは邪魔でしかないのかも。痛みが走る程手のひらを握ると少しだけ涙が出そうになった。
「ならどうして泣いていたの?」
『…だって、』
乙骨くんの質問に涙が出そうになって唇を噛むと、彼は不思議そうに首を傾げて私の唇を親指で優しく撫でた。
「そんなに噛んだら傷になっちゃう」
『……乙骨くんの、優しい所が、好き、』
「…へ!?」
『でも、その優しさが、嫌い、』
「苗字さん…?」
コロコロと表情を変える乙骨くんを見て視界が歪んだ。誰よりも強くて友達思いで愛情深くて優しい人。そして、残酷な人。
『…少しでも、乙骨くんにとっての、特別な人になりたかった。乙骨くんが私の事好きじゃなくても良かったなのに、…なのに愛して欲しいって、思っちゃった、』
「苗字さん、」
『代わりなんて、嫌なの…、ちゃんと私を見て欲しい…、私を好きだって、言って欲しい…、』
「待って、苗字さん、」
『ほんの一部でも良かった…、私の事、好きだって、』
「待って…!」
乙骨くんは私の顔の前に手のひらを向けると不思議そうに首を傾げた。流れ落ち続ける涙をそのままに眉を寄せると、彼は苦笑を浮かべて頬を掻いていた。
「…僕の好きな人は、苗字さんだよ?」
『………………………どこの、苗字さん?』
「今、僕の目の前に居る苗字名前さんだよ」
『…………』
「キョロキョロしてもここに居るのは僕と苗字だけだよ」
『……ドッキリだ』
「こんな時にそんな事出来るわけないでしょ?」
『だって、乙骨くんが好きなのは、』
その先を言いたくなくて息を飲み込むと私が何を言おうとしたのか乙骨くんは気付いたようだった。
「……確かに僕は里香ちゃんを愛してる」
『………』
「彼女を解呪した今でも彼女は僕の中で特別な存在なんだ」
面と向かって言われた言葉に心臓が鷲掴みされたように苦しくなった。息も出来ない程涙が流れて苦しい。顔を両手で覆うとした時、手のひらが掴まれた。でもそれを拒みたくて手を引いても、私以上の力で手を引かれて思わず顔を上げる。
「……でも、僕は苗字さんの事が好きだよ」
『自分が、何言ってるか分かってる…?…里香ちゃんの事を愛してる。けど私の事も好きって、最低だよ、』
「分かってる。でも一人の女性として愛してるのは苗字さんだよ」
『嘘だ、…だって、乙骨くんが言ったんだよ。里香ちゃんを愛してて特別だって、』
首を振って乙骨くんを否定する。だってこんなのあんまりだ。あまりにも、最低で、残酷だ。
「聞いて、苗字さん」
『やだっ、何も聞きたくないっ、乙骨くんは最低だよっ、』
「苗字さん、僕を見て」
そう言われても顔は見れなくて涙がボロボロと流れて乙骨くんの手を払い退けて両手で顔を覆う。自分の声すら五月蝿い。今すぐ消えてしまいたい。
「…苗字さん、」
『……ごめん、ひとりに、してほしい、』
「苗字さん、」
『ひとりにして、』
蹲ってしまいたい。大声で泣き喚いてしまいたい。この行き場の無い感情を投げ捨ててしまいたい。この痛みを、この気持ちを、想いを全て捨ててしまいたい。
「僕は、苗字さんが好きだよ…」
『……放っておいて…、大丈夫だから、…ちゃんと、同期に戻るから、』
「…僕は嫌だよ。ただの同期になんて、戻りたくない」
『どうして、そんな酷いこと、言うの、』
「……本当に好きなんだよ、苗字さんの事が。…好き合ってるのに、ただの同期なんて、僕は嫌だ」
地面に両手をついて砂を握るとガリッと爪が地面を削って嫌な音がした。今すぐこの男にこの握りしめた砂をぶつけてやりたい。
『好き合ってるって、…違うでしょ。…乙骨くんは、私を好きなんかじゃない、』
「好きだよ」
『…違う。…乙骨くんが好きで愛してるのは、私じゃない』
「さっきも言ったけど里香ちゃんは好きだし愛してる」
『だったら、』
「でも人の気持ちは変わっていくものだよ」
『…………言葉の意味、分かってる?』
「分かってる」
『それって、もしも私の事が好きだとしても、気持ちは変わるって事でしょ』
当たり前だ。そんなの私が一番身に染みて分かってる。恋愛体質の私はこれまで好きな人の数は両手じゃ足りない。なのに彼に変わらない愛を求めるのはお門違い。
「気持ちが変わることは、いけないこと?」
『…………そん、なの、』
「里香ちゃんへの愛情は恋愛から家族愛になってはいけない?僕は苗字さんを愛しちゃいけないの?」
『……そ、んなの、』
「里香ちゃんは苗字さんを愛する僕を許さない?もしそうなら解呪した理由は何?僕は誰かを愛しちゃいけないの?僕は苗字さんへの気持ちを、押し殺さないといけないの?」
『………そんなの、分からないよ、』
自分勝手だ。彼の愛が欲しいと言っておきながら、そんなの可笑しい、分からない、なんて。私は、何がしたいんだ。
「苗字さん、」
『…なに、』
乙骨くんは私の右手を包むと、左手で私の頬を包んだ。その手は酷く温かくて眉を寄せる。温もりなんて知りたくない。これ以上、私に、私の心に触れないで。
「…僕に、苗字さんを愛させてよ。僕の気持ちを、否定しないで…、」
『…だって、こんなの、』
「この気持ちが違うなら、君が他の男の人の近くに居るだけで苦しくて重たくなるこの感情は何?君が伏黒君や虎杖君を褒める度に心臓が焼き切れそうな程痛むこの感情は一体何?」
『……ち、違う、よ、それは、…、』
「僕は苗字さんが任務地に来てくれて凄く嬉しかった」
『そんなの、他の3人が来たって、』
「勿論嬉しかったと思う。でも苗字さんのは違うんだ。本当なら会った瞬間に抱きしめたかった。触れたかった」
そう言いながら乙骨くんは私の頬を涙を親指で拭う。その手があまりにも優しいから勘違いしてしまいそうになる。私は彼の特別だ、なんて。
「空港で苗字さんが告白してくれた時、本当はまだ時間があったんだ」
『…え、』
「でも自分が伏黒君の代わりだって聞きたくなくて、逃げたんだ」
『だって、伏黒くんは、弟みたいだって、』
「うん。あの時もそう言ってくれたけど、怖かったんだ。…それに僕は、苗字さんに好いてもらえる様な人間じゃないから」
『そんな事っ、』
「空港で好きだって言ってしまいたかった。でも、僕は卑怯で臆病だから。…形だけでも苗字さんの特別になれるだけで良かった」
自虐的な笑みを浮かべてそう言う彼は嘘を言っている様には見えなかった。だからこそ、私は認めたくなかった。
『私は、里香ちゃんには、勝てない、』
「どうして勝つ勝てないの話になるの?苗字さんと里香ちゃんは違うんだ」
『……もし、…万が一に、私が乙骨くんと付き合えたとしても、私はずっと、里香ちゃんの事を考えて考えて、…きっと落ち込む』
呪ってしまう程彼女を愛していた乙骨くん。私は永遠に勝てないだろう。乙骨くんが何度私に愛してると言ってくれても、私の頭の中では彼女の事が過ぎる。
「……それでも、僕は苗字さんと一緒に居たいよ。…苗字さんを愛したい」
『…嫌だよ、…そんなの、苦しいもん。辛いだけだよ…、どれだけ頑張ったって、乙骨くんの中には、私は居ないもん、』
我ながら面倒くさい女だ。好きだと言ってくれているのだから身を任せてしまえばいい。そしたら彼はきっと愛をくれるのに。