逆回りのぬかるみを抜けて


喉の乾きは日に日に酷くなる。血を飲まなくなってどれくらいが経っただろうか。きっと数ヶ月は経っている。




『………クソッ』





血を飲まなくても死なない。けれども喉は乾く。水を飲もうと、何かを飲もうとこの乾きは癒えない。窓の外を眺めると青々しく茂っていた木々の所々が茶色く変わっていた。




『……何の用だ。五条の小僧』

「いや?そろそろ限界かなって」

『なんの話しだ』

「餓死寸前なんじゃない?」




小僧の物言いを鼻で笑う。未だに吸血鬼の事を…、私の事を履き違えているらしい。本当に小僧だ。





『餓死などせんよ。ただ空腹が続くだけだ』

「地獄じゃん!」

『そうだな。人ならば耐えられないだろうな』

「さっさと恵と仲直りしたら?」

『仲直りも何も喧嘩などしていない』

「なら血貰えば?」

『……そうだな』





小さく頷いて外を眺めると前にも見た器と女、そして禪院の小童が楽しそうに組手を始めていた。





『………小僧』

「なに?」

『私の着物は何処だ。捨てては無いのだろう』

「着物?あるけど…、どうすんの?」





晴れていた筈の空が曇り、辺りが暗くなる。小童がこちらを向く気配がして視線を逸らして五条の小僧を見やる。





『…戻るだけさ。元の場所に』




呪霊は呪霊らしく。陽の当たらない場所に。



∴∴∴





『…………』




着物に袖を通すと慣れた感触に目を細める。やはり慣れているものが一番いい。





『………』





月明かりに照らされて手を伸ばす。窓際に腰を下ろして下を見ると見た事の無い男が門の辺りに見えた。





『………オマエでもいい』





香りを飛ばすと男は私を見上げてこちらに向かって歩みを進めた。誰でもいい。この気持ち悪い感情を一時的に消してくれるなら。




「……………」

『……どれだけ探しても、どうせ見つかりはしない』





部屋に辿り着いた男に手を伸ばすとその手を取られて窓際から下ろされ床に押し倒される。




『……人間の一生は酷く短い。長くてたったの百年』






百年なんて、私にとっては一瞬だ。これから私は何年、何百年生きていけばいい。たったひとりで。






『……ひとりにしないと、言っただろう』





瞼を閉じると生暖かい物が頬を伝った気がした。私の体を撫でていた男の手が離れて目を開く。





「泣く時は俺を呼べって言っただろ」

『……随分と嗅覚が鋭い様だな。禪院の小童』

「なんで呼ばねぇんだよ」





男の首根っこを掴み部屋の外に引き摺って廊下の方に投げると私の手を取って体を起こした。




『どうしてここに来た』

「勘」

『……野生動物か』

「なんで泣いてんだよ」






頬を拭うと何故か濡れていた。無意識に笑みが浮かんで壁に背中を預けて膝を立てる。




『老人は昔の事を思い出して涙するものだよ』

「何を思い出したんだ」

『…老人の昔話に興味があるのか?』

「名前の過去には興味がある」

『変わった子だな』





禪院の小童は私の隣に座り込み私の方は見ずに静かに口を噤んだ。





『……そうだな。今は気分がいいから話してもいい。…私は元々宿儺と同じ人間だった。村に産まれ、親の顔は知らん。気がついた時には村の邪魔者として扱われていた』

「………」

『今のような時代では無かったからな。親の居ない私などタダ飯食いの邪魔者だ。そしていつからか私は村の人間達の生贄となり、人間達の玩具となった』

「人間が憎くて、呪霊になったのか」

『あぁそうだよ。身を焼く炎の中で酷く憎んだよ。どうして私が。私が一体何をしたのか。…考えても答えは出なかった。……そして気付いた時には村を全て燃やし尽くしていた』

「……今も、人間が憎いか」

『どうだろうな…。随分と昔の話だ』





私の話だというのにまるで自分の事のように顔を歪める小童に笑みが漏れる。人の子は面白いな。




『呪霊となってからは好き勝手に暴れた。簡単に人も殺したし、好き勝手に貪り食った。そして特級呪霊として扱われるようになった』

「……名前の大切な奴は、」

『………アイツと出会ったのは明治の頃だな』





酷く気の弱い子だった。齢10にも満たない時に面白半分に拾って育てた。人の成長とは早いもので数年の内に私より小さかった体は私を追い越して見下ろされるようになった。





『けれど体が大きくなっても気が弱いのは変わらなかったな』





花を愛でて、誰に対しても分け隔てなく接する。絵に書いた様な善人だ。嫌いなはずなのに、アイツの隣は心地良かった。




『アイツの口癖は“ひとりは寂しい”だった。私がひとりになろうとすると少し不機嫌そうにそう言うんだ。何百年もひとりだった私にだ』




そんな誰にでも優しいあの子に甘えてしまった。呪霊である自分もあの子の様になれるのではないかと。





『……私はあの子を呪霊にした』

「呪霊に…?」

『呪いをかけたんだ。私と居るせいであの子も非難の的となり、立ち寄った村で殺されたんだ。…だからあの子が命を落とす前に呪いをかけて呪霊にした』






そしてあの子が呪霊として目を覚ました時、酷く彼は悲しんだ。自分が呪霊になったことでは無い。私が、その村を焼き払ったからだ。





『それでもいつかは分かってくれると思っていた。けれど酷く優しいあの子は悲しみ、苦しみ、罪悪感に押しつぶされてしまった』

「………」

『………そしてあの子は、私の目の前で自害した』





ーーーー「……ごめんなさい、」






『その言葉を口にするべきは私だったのだろうな』

「…………」





私を寂しさから守ると言ったあの子は。私を好きだと言ったあの子は、



私の目の前で、私を置いて逝った





『けれど、そうさせたのは私だ』

「……人間に惚れてたのか」

『………今更否定した所で、仕方ない。人間であろうと、呪霊であろうと私はあの子に惚れていたのだろうな』

「………」

『呪霊になってから恋煩いをするとは思ってもみなかった』

「…だから、人間の……餓鬼が嫌いなのか」

『……オマエ達を見ていると時々あの子と重ねてしまう。…私が殺してしまったあの子に』





呪霊になったことを後悔はしていない。けれどもし、今の時代に産まれることが出来たのなら。あの時に戻れるのなら。




『…きっと戻れたとしても、私は同じ様にあの子を殺そうとする人間を殺していたよ』

「………」

『……可笑しな子だ。どうしてオマエがそんな苦しそうな顔をする』

「……俺は、俺自身を善人だとは思っていない」

『それが普通だ。恥じることでは無い』

「名前の惚れた男が善人だとしても、俺は善人になる事はできない」

『私は別に善人が好きな訳では無い』

「それでも俺は名前と一緒に居ることはできる」

『…………私に惚れたか』

「あぁ」

『呪霊に惚れるなど正気の沙汰では無い』

「呪術師なんてみんなイカれてる」

『私の何処に惚れたかは知らんが止めておけ』






膝に手をついて立ち上がると着物が窓から入り込む風に揺れて靡いた。





『……泣く事になるぞ』





その言葉は何故か自分の頭に重たく響いた。



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