月々のささくれ



『…えっと、ここかな?』

「ここみたいっスね」





新田さんと共に都内の古びた建物前に立って上げると、確かに呪霊の気配がした。私は新田さんに周りの警戒を頼む為に振り返るとポチャンと音がした。視線を下に落とすと新田さんが居たはずの場所に黒い水溜りが出来ていた。……嘘でしょ?






『っ、新田さん!』





私は焦り始める心臓と頭を落ち着ける為にグッと追いたい気持ちを抑えて、深呼吸を繰り返す。そして建物に足を踏み入れた。急いだって私がやることは変わらない。





『エレベーターに乗って、4階まで上がってまた1階に戻るのを4回繰り返す…だったよね』





私はエレベーターに乗り込んで4階を押して辿り着くのを待って、また1階を押す。登ってるエレベーターで下に行ける時点でここのエレベーターは可笑しい。そして最後の1回を行う為に開いた扉から降りること無く4階のボタンを押した時扉の隙間に黒い影が見えて慌てて開くボタンを押したけれど間に合わなかった。





『しまった…!』

「ママぁ…!」

『しかも子供…!?』





迷子になった子が前も見ずに走っていたのか運悪く私の居るこのエレベーターに入って来てしまった事に焦った。既にエレベーターは4階に向かってしまっている。次のこの扉が開いた時にはこの建物はただの建物じゃなくなってる。





「ママーッ!」

『だ、大丈夫だよ!ここから出てすぐにママ探そうね!』





私は未だに泣きじゃくる4.5歳と見られる子供を抱き上げる。これで完全に近接戦は封じられた。しかも私は虎杖くんや伏黒くんのように小さい子を抱えながら戦うなんて器用な真似は無理。





『…さとるくん頼り、になっちゃうか、』

「ママぁー!」

『大丈夫、大丈夫だから、そんなに泣かないで?』






私は子供を抱え直してこの子の涙を拭う為に片手を離した時、ふと思い出した。





『…あれ、この建物ってエレベーターの前に重いガラスの扉があったよね?』





私は冷や汗を流しながらゆっくりと祈る様に視線を子供に向けた。頼むから、止めてね。






「マ、ママァ、…ママママママーッ!」

『…これ、ヤバいやつ?』



私が見た子供の瞳は真っ赤に染まり、頬には血のような液体が頬を伝っていた。



***


「苗字さん!」

『…新田、さん、無事で良かったです…、』

「すんません!自分が油断したせいで…!」

『とりあえず、呪霊は、祓ったので、もう、大丈夫です、』





私はボーッとする頭で何とか伝えると新田さんは私の片腕を取って自分の腕に回すと、私の体を持ち上げた。呪術師なのに情けない。





『…すみません、』

「それはこっちのセリフっス!病院より高専の方が近いので向かいます!寝ないでくださいね!」

『そんな、北極、みたいな…、』





ボタボタと血が私たちが歩いた場所に付いてしまっているし、新田さんのスーツにも私の血が付いてしまった。けれど謝れるだけの気力が残っていなくて私はゆっくりと瞼を閉じた。





『………だれ?』






頬を撫でられる感覚がして瞼を開くと私の傷は治っていて、車でもベットでもなかったからすぐに夢だなって気づいた。





『…伏黒くん?』

「苗字」





私の頬を撫でていたのは伏黒くんだったようで、その手に甘える様に擦り寄ると、彼はするりと手を抜き取ってしまった。どうして、と思いながら見上げると伏黒くんは無表情なまま私を見下ろしていた。





「苗字、ごめん」

『…伏黒くん?』





それだけ言うと彼は私に背を向けて去ってしまった。そんな彼の隣には彼女が立っていた。ああ、やっぱりあの子は、





『……いか、ないで、』






小さく呟いた声は何処にも届かなくて私は両手で顔を抑えて涙を流し続ける。夢ぐらい、幸せにしてよ。夢だけでいいのに。







『………新田さん、』

「あ!苗字起きたんっスね!良かった〜!このまま死んじゃったらどうしようかと…!」





目を覚ますと私はまだ車の中に居て、新田さんが運転してくれていた。私は後部座席に寝かされていて上体を起こすと眠る前よりは痛みは減っていた。うん、これなら歩いて家入さんのところに向かえそう。





『送ってくれてありがとうございました』

「本当について行かなくて大丈夫っスか?」

『はい!十分元気になったので!』





私は血のついた制服のままお辞儀をして新田さんの車を見届けるとそのまま家入さんの元を目指す。






「苗字…!?」

『…あ、』





校舎内を歩いていると後ろから呼ばれて振り返ると、彼が慌てた様に目を見開いて私の元に駆け寄った。ちょっとタイミング悪いなぁ…。





『伏黒くんどうしたの?』

「どうしたのじゃねぇ!オマエ、傷が!」

『あんまり痛み無いから平気だよ』

「それは平気とは言わねぇんだよ!出血量が多くて体が麻痺してるんだ!」

『…あ、そっか。なるほど』

「納得してる場合じゃねぇ!」





伏黒くんは私を抱える為か両手を伸ばしたけど私はその手を取って右手の指を絡めた。






『…大丈夫だから、ちょっと一緒に歩こう?』

「はァ!?」

『本当に大丈夫だから。お願い』

「ーっ、」





私がそう言うと伏黒くんはグッと唇を噛んで何処か足早に歩き出した。そんなに引っ張られたら疲れちゃうよ。






『伏黒くんは今日は何してたの?』

「…部屋で本読んでた」

『へぇー、どんな本?』

「ノンフィクションの、」

『実話系好きだもんね』




私がそう言うと伏黒くんは私の手をギュッと握った。でも痛みは感じなかったからそんなに強くは握ってないみたい。文字通り痛みを感じてないだけかもしれない。





「家入さん、苗字お願いします」

「これはまた派手にやらかしたね」

『見た目はあれですけど、本当に大したことないです』

「……片目潰れてないか?それ」

『…え?嘘…』

「やっぱり気づいてなかったのかよ…!」






何となく視界が狭いな、とは思ってたけど多分潰れてはないと思う。ただ目の上を切られたから血が入らないようにしてただけで。





「治すから君は出てて」

「………」





伏黒くんはジッと私を見て、動こうとしなかった。私は伏黒くんと繋がれた手に少しだけ力を入れると彼がピクリと揺れた。





『ちょっとだけ待ってて』

「……分かった」






伏黒くんは小さく頷くと部屋を出た。そして私は離れた手をギュッと握って家入さんの方へと向き直す。





『お願いします!』

「あんまり大声出さない。腹も切られてるんでしょ」




家入さんは呆れたように溜息を吐きながら持っていたコーヒーを机に置くと私の治療を始めてくれた。






『…伏黒くん、お待たせ』

「……眠そうだな」

『んー、ちょっとね』






殆ど閉じてしまった瞼を見た伏黒くんは私の手を取ると歩き出した。私は全て伏黒くんに任せて足だけを動かしていると、彼が口を開いた。





「……苗字、」

『んー?』

「呪術師、辞めないか」







伏黒くんが立ち止まったから私も止まって顔を上げると、彼の表情は何処か苦しそうに歪んでいた。そしてもう一度、重たく空気を揺らした。





「……呪術師、辞めてくれないか」









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