子守唄がなくても眠れるなんて
たった一瞬で視界が真っ黒になった。その事に目を見開くと、心地良い私の大好きな声が耳を揺らした。
「…やっと見つけた」
『伏黒、くん…?』
伏黒くんは私の前に膝を折っていて、服装が真っ黒だから病室とは真逆だった。少し顔を上げると窓が空いていてヒラヒラとカーテンが舞っていた。もしかして窓から入ってきたの?ここ5階だよ?なんて考えていると少し遠くから呻き声が聞こえて顔を向けると、田中くんが床に倒れていて上体を起こしている所だった。
「大丈夫か?」
『だ、いじょうぶ、だけど、』
私がチラチラと田中くんを見ると伏黒くんは私の手を取って立ち上がらせた。そして私の肩辺りを見て眉を寄せた。
「三級まで育てたのか」
『…さんきゅう?…育てた…?』
「オマエ中学の時からコイツの事呪ってただろ」
『え、…え?』
私を見て伏黒くんはそう言うけど、私はなんの事か分からずに首を傾げることしか出来なかった。すると田中くんはフラフラと立ち上がって伏黒くんを血走る目で睨みつけた。
「伏黒…!…伏黒!伏黒伏黒伏黒伏黒伏黒!!」
「うるせぇ。病院だぞ」
「邪魔なんだよ…!いっつも俺と名前の邪魔しやがって…!!」
「そうか、それは悪かったな」
伏黒くんは淡々と答えて私の肩辺りを一度だけ手で払うとフッと肩が軽くなった気がした。久しぶりの肩の軽い感覚に足が一歩前に出ると伏黒くんが私の肩を抱いて右手で抱き寄せた。
『…え、』
「それじゃあ苗字見つけたし俺は帰る」
そう言った伏黒くんに私が顔を上げるのと同時に壁を殴った様な音がして顔を向けると田中くんの手から血が流れていた。壁にも少し血がついていた。
「ふざけるなっ…!返せっ、名前を返せっ!」
「返すも何もオマエのじゃないだろ」
「俺のだ!俺の名前だ!」
すると伏黒くんは私を見下ろして溜息を吐いた。人の顔を見て溜息は流石に酷いと思うんだけど。
「女の顔を拳で殴るイカレ野郎が一丁前に偉そうだな」
「それはちゃんと謝ったよ。名前も許してくれた」
「許したのか。オマエ心バカ広いな」
私は慌てて首を左右に振ると伏黒くんは田中くんに向かって「許してねぇってよ」と言った。すると田中くんは逆上したように顔を赤くし私を睨んだ。
「なんでだっ、なんでだっ、名前っ、」
「オマエ声でけぇよ。人が集まるだろ」
「クソっ…、クソォッ!」
「そろそろ人が本当に集まるから俺らは行く。もう呪うなよ」
伏黒くんはそう言うと私の肩を抱いたまま病室を出ようとする。すると田中くんが伏黒くんの肩を掴んで殴りかかったけど、伏黒くんは軽く避けてそのまま彼の顔を殴りつける。バキって音がした。反射的に肩を竦めて背中に寒気がした。
「執拗い」
「オマエなんかより俺の方がっ、ずっと…!ずっと前から…!」
「おおそうだな、先輩」
伏黒くんはそう言うと田中くんの額に指を当てた。すると田中くんは体の力が抜けて地面に倒れて気を失ってしまった。
『ふ、伏黒くん、』
「とりあえず今はコイツの説明を病院にしてからだ」
彼はそう言って私から離れるとナースコールを押して簡単に説明するとすぐに看護師さんが現れて私の頬を治療してくれた。
『…ありがとう、ございました、』
「いえ。苗字さんどうします?もう夜ですし、病院泊まりますか?寝不足だったから目が覚めたら退院の予定だったんですけど…」
『あ、えっと…、』
「帰ります。ありがとうございました」
突然現れた伏黒くんに腕を取られて看護師に頭を下げると、丁寧に会釈をしてくれた。手を引かれて病室に戻ると私に背を向ける。
「帰るから着替えろ」
『…え?』
「流石に患者服は返さないといけないだろ」
『あ、そ、そっか…』
私が着替えるのに彼は出て行く気が無いのか背を向けたままスマホをいじり始めた。私は呆然としたまま患者服に手をかける。
「なんで連絡寄越さなくなった」
『…え?』
「数週間前から連絡が来なくなっただろ」
『…そうだっけ?』
「しかも俺の事ブロックしただろ」
『スマホが、壊れちゃって…、アカウント変えたの』
「ならスマホ出せ」
彼の言葉に私はワイシャツのボタンを留めていた手を止めてしまった。すると伏黒くんはゆっくりと振り返って眉を寄せると、私に近寄り中途半端に留められたボタンを留めてくれた。
「ボタンくらい自分で留めろ」
『…ごめん』
「それはどっちに対してだ?ボタンの事か、ブロックしたことか」
『……ボタン、』
そう私が答え、伏黒くんはボタンを留め終わると私から離れて私を見下ろした。視線を合わせるのが怖くて地面を見つめると伏黒くんは私のスーツを取って肩に掛けてくれた。
『…ありがとう、』
「ブロックしてたこと否定しないんだな」
『……ブロックしてないよ、』
「ボタンの事かブロックの事かって聞いた時、ボタンって答えただろ」
『…そういうの揚げ足って言うんだよ』
「そうかもな」
伏黒くんは私がスーツを着たのを確認して手を取ると、私の荷物を持って病院を出た。私は慌てて手を離そうと腕に力を込めるけど、彼の手からは抜け出せなかった。
『ふっ、伏黒くん!手離して!』
「逃げるだろ」
『逃げないっ、逃げないからっ、』
「ならこのままでも問題無いだろ」
『あるよ!すごくある!』
私がそう言っても彼の歩みは止まらないし、手も離れない。私は伏黒くんの手に左手を重ねて抜こうとしても頑なに手を離そうとはしなかった。
『っ、彼女さんに見られたら困るでしょ…!』
「別に。っつーか誰のだよ。苗字に彼女はいねぇだろ」
『なんで私になるの…!』
「なら誰のだよ」
『ーっ、伏黒くんの彼女だよ!』
「……はァ?」
私が少しだけ声を荒らげると伏黒くんは立ち止まって振り返りキョトンと首を傾げた。すると考えるように眉を寄せると、傾げていた首を戻して口を開いた。
「俺の彼女は苗字だろ」
『……………は?』
「……は?」
私たちはお互いに目を見開いてピシッと固まった。
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