02
小さな頃から絵を描くのが好きだった。でも、好きだからと言って上手いわけでも無いし、自慢できるような出来でも無かった。だからひとりで書いて、ひとりで満足していた。
ーー「待ってください兄貴!」
ーー「ついてくんじゃねぇ!」
小学生の頃に見た任侠ドラマで出てきた背中の刺青。何故か私はその龍や虎や鯉の彫り物に感動した。こんなに綺麗な物がこの世にあるんだ、って。人の体にあんな綺麗な赤や青、緑の彩り取り背中は私にとって虹のようなものだった。
「名前は将来何になりたいの?」
『わ、私は、』
親の問いかけに私は答えられなかった。彫り師なんて、楽しそうに聞いてくれた親には言えなかった。けれどその夢が諦められずに私は親に内緒で彫り師をやっていた今の師匠に弟子入りをして、彫り師になった。
「名前、アンタ今日のお客さんやってみなさい」
『…え、いいんですか!?』
「いいわよ」
私の師匠は所謂オネエと呼ばれる人だった。けれど気さくで優しくて面白い、最高の師匠だ。
「いいけど、カタギの人間じゃないわよ」
『え゛』
「どうする?止めとく?」
『…………やります。やらせてください』
ミスさえしなければ殺されない筈だ。カタギ、カタギじゃない関係無く失敗は怒られる。怒られるなんてもんじゃない。緊張感は変わらない。
「来たわよ」
師匠の言葉に体がビクリと揺れ、扉を見ると数人のどう見てもカタギじゃない人達が現れた。
『…初めまして。今回担当させていただきます、名字です』
「おう。今日はこれを首元に入れてくれや」
受け取った紙には女性の名前と思われる文字があり、私は少し眉を寄せる。
『……あの、』
「何だ?」
『これは、その…、女性のお名前ですか?』
「そうだ。なんか問題あんのか?」
顔を顰めて私を睨みあげる男の人に心臓がギュッと押し潰された感覚に陥る。私も何度かこういう依頼を受けた事はある。彼女の名前とか、奥さんの名前とか。
『……女性のお名前を彫るのは、あまりおすすめしません』
「……あ゛?」
「文句あんのか?ただの彫り師のくせによォ」
周りにいたお付きの人達も私を凄み、場の空気が一気に冷やかなものに変わった。でも私だって彫り師で、何人もお客さんを相手にしてきた。刺青は簡単には取れない。だからこそ、後悔して欲しくない。
『…私も何度か女性のお名前を彫って来ましたが、後悔しなかった男性を見たことがありません。勿論、愛を疑ってるとかそういうことじゃないです。でも、もう一度よく考えてからでも遅くないと思います』
ここで負けてはいけないと、グッと涙が出そうになるのを抑え、目に力を込める。少し考えて、やっぱり入れたいってなったらまた来てくれればいい。
「……考えてからでも遅くねぇんじゃねぇか」
「…左馬刻」
ひとりの男性がそう仲介に入ってくれた。低く唸るような声に最初は怯えたものの、さまとき、と呼ばれた男の人の言葉に、彫ろうとしていた人は溜息を吐くと、小さく頷いた。
「分かった。なら今日は背中にこれを足してくれ」
『分かりました』
見せてくれた紙を確認し、背中に龍を施す。彫り終わると、男の人達はぞろぞろと店を出て行った。そして最後に出ようとした男の人に声をかける。
『あのっ、』
「あ?」
『さっきはありがとうございました』
バッと頭を下げてお礼を言うと、男の人は何も言わなかった。首を傾げながら顔を上げるとルビーの様な綺麗な瞳と視線が交わった。
「……別に。女の名前を彫るのは俺も反対だったしな」
『お兄さんは刺青入れてないんですね』
「あぁ、まぁな」
『入れないんですか?』
「……そのうちな」
アロハを纏った男の人はお店を出る前に私を見ると、ゆっくりとお店を後にした。スタイルも良くて、凄く美人だったな、なんて思いながら道具の片付けに取り掛かった。
∵∵
「名前!大変よ!」
『え?』
あれから数日後、いつも通りに仕事の準備をしていると、師匠が慌てたように私の元へとやって来た。彼氏でも出来たのかな、なんて首を傾げると、師匠の顔は真っ青になっていた。
「火貂組の人達が乗り込んで来たの!」
『…… 火貂組?』
私が言葉を繰り返したのと当時に扉が荒々しく開かれ、反射的に視線を向けると、ガラの悪い男の人達がお店の中へと足を踏み入れた。
「居たぞ。アイツだ」
その内のひとりが私を見るなりそう言った。当然のことに呆然としていると、男の人が私の腕を掴んで口を開いた。
「今日からうちの組で彫り師として働いてもらう」
『……はい?』
呆ける私達を他所に、男の人達は私の腕を掴んで高そうな車に乗せると、如何にもヤクザが居そうな建物へと連れて来られた。
「道具が必要なら俺達が用意する」
『…あの、状況が飲み込めなくて、』
「若頭の命令だ。諦めろ」
『若頭…?』
よく分からないけど、私はどうやら火貂組で働く事になったらしい。勿論、恐怖はあったし、逃げようと思った。けれど私が住む横浜を仕切っているのは彼らだし、思ったよりも優遇された対応に悪くないかな、なんて思ってしまった。それに家族や師匠とも連絡が取れて、無事なのも分かったし、普通に生活出来ているから不自由はない。
∵∵
そして今に至る。とは言っても、毎日彫りに来る人なんて居ないし、正直暇な日が多い。
『……帰っちゃ駄目かな』
道具の手入れも終わり、やる事が無くなってしまった。帰りたいけど、誰に言えばいいのかも分からないし、まず言う勇気が無い。ヤクザの人達に暇だから帰ります。なんて言えない。
「暇そうじゃねぇか」
『あ。碧棺さん』
「給料泥棒してんじゃねぇぞ」
『したくてしてるんじゃないんですけど…』
鼻を鳴らして笑った碧棺さんは椅子に腰をかけ、近くにあったデザイン画を見始めた。
『彫る気になりました?』
「いや全然」
『……なら何でデザイン画なんて、』
「これ全部、オマエが彫ったのか?」
『まぁ、殆どはそうです。たまに師匠のもありますけど』
「あのオカマ野郎か」
随分な言い様だ。碧棺さんの肌は真っ白で傷も無く、ニキビも無ければ、本当に毛穴あるの?って程綺麗だ。そんな綺麗な背中に派手な刺青を入れてみたい。
『彫りたくなったら言ってくださいね』
「ならねぇ」
『欲を言うなら私が彫りたいです』
少し調子に乗ってそう言うと、碧棺さんは立ち上がって私の前に立つから見上げると、背が高くて首が音を立てた。
『あの…、碧棺さん?』
「……オマエの最高のデザインが出来たらそれを彫ってやるよ」
『…え、』
そう言って碧棺さんはまた席に着いてデザイン画をペラペラと捲った。
『………なら頑張って仕上げないとですね』
「おう」
私がデザインを考えているのを何故、碧棺さんが知っているのかは分からないけど、何となく頑張ろうかな、なんて気になってしまった。きっと師匠からでも聞いたんだろう。
『碧棺さんは好きな動物とかいますか?』
「別に無ぇけど」
『なら鯉なんてどうでしょう!かっこいいと思います!』
「ダサ」
『ダサッ!?』
現に鯉を入れてる人だって居るのに失礼な人だ。私は思わず碧棺さんが持っているデザイン画を奪い取り、過去に彫った自信作である鯉を見せた。
『これのどこがダサいんですか!?かっこいいじゃないですか!!』
「ならオマエはこれを自分の体に入れてぇのか?」
『私入れませんよ!痛いの嫌ですし!』
「なんで彫り師なんかやってんだテメェ」
刺青を入れたら温泉にも入れないし、プールにもいけない。かっこいいとは思うが、入れるのは勘弁だ。
『碧棺さんは肌が綺麗だから赤とかが映えると思うんです』
「勝手に見んじゃねぇよ。変態女」
『そんな露出したアロハを着ている人に言われたくありせんけど!?』
思ったよりもノリのいい碧棺さんに素が出てしまった。ヤクザの人は怖いからずっと人当たりのいい態度をとって来たのに。
『私、碧棺さんは暴力的な人かと思ってました』
「あ?」
『結構立場が上の人みたいですし、いつも部下の人連れてるし』
「まぁ若頭だしな」
『………若頭?』
言葉を理解するのに数秒時間がかかった。そして理解した瞬間、私の体は地面にひれ伏し、土下座を披露していた。
『すみませんでしたァ!舐めた口聞いて!!』
「何やってんだオマエ」
『あのっ、本当すみませんでした。若頭様だなんて知らなくて、』
冷や汗が止まらず、とにかく謝るしかないと額を地面に擦り付ける。すると碧棺さんが低く言った。
「俺様に女を土下座させる趣味は無ぇ。今すぐ止めろ」
『はいッ!!』
急いで立ち上がり背筋を伸ばして両手をズボンの縫い目に合わせる。さながら小学生の整列だ。前へならえ、ってやつ。
「俺が若頭だって分かったっつーことは、俺様がオマエをどう思ってるのかも分かったんだろ」
『どう思ってる…?』
言葉を理解出来ず首を傾げると、碧棺さんは椅子から立ち上がって私の前に立ち、私の髪を耳にかけると、その手をゆっくりと後頭部へと移し、顔を寄せた。私が驚いて目を見開くと、唇に柔らかい感触が襲って、ルビーの様な瞳と視線が交わった。
『……へ、』
思わず声が漏れると、唇を甘噛みされて舌が私の口内を好き勝手に蠢く。慌てて碧棺さんのアロハを掴むと、その手を取られて優しく握られる。 何だこれ。何してるんだこれ。後頭部と手に触れた碧棺さんの手は酷く優しくて、それすらも混乱する。
『んッ、』
ゆっくりと私の口内を確かめるように動く舌が上顎を撫で、鼻から抜けたような声が自分から出て驚いた。 元彼とキスした時はこんな事無かったのに。擦り合う舌が気持ち良くて膝が抜けそうになる。
『ぁ、あお、ひつぎさ、』
膝が崩れ落ちそうになった時、リップ音を鳴らしながら離れた唇に頭が回らなくなった。いつの間にか後頭部にあったはずの手は腰に周り、私を支えていた。ボーッとした頭で碧棺さんを見上げると、彼は自分の唇を舌で舐め、私の唇の端から零れた唾液を親指で拭ってくれた。
「俺様の名前は碧棺左馬刻だ。覚えておけ」
『…碧棺、…左馬刻、』
あの時の、さまとき、と呼ばれていたのは碧棺さんだったのか、なんて働かない頭で考えていると、碧棺さんは私を椅子に座らせて何度か頭を撫でた。
「また来るからな」
彼の背中を見送った数分後、さっき起きた出来事を分かり始め、私の頭は沸騰したように熱くなった。
『……もしかして私、やばい人に気に入られた?』
私なんかのどこを気に入ったのか。あんな美人さんが私なんかをどうして。キスめちゃくちゃ上手かった。いい匂いした。そんな事を考えながら、どうしたものかと私は頭を抱えて項垂れることしか出来なかった。
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