3月14日 30日目
「………」
早朝に俺は1人でいつも大学で使っとるコートに来て、ボールを握って居った。
『………お、はよう』
「………おはよう」
控えめに扉が開かれて顔を向けると緊張した様な面持ちの名前が上半身を覗かせていた。
「こっち来て」
名前に手招きすると素直に俺の隣へとやって来た。体育館の端に座り込んで名前に持ってきた毛布を掛ける。
「体育館寒いやろ?」
『はい…、えっと、…うん』
「緊張しとる?」
『…ちょっと、』
そんな名前に俺が笑うと、不思議そうに首を傾げていた。
「家にあった電気ケトル持って来たから温かいの入れるな」
『…ありがとう』
俺は立ち上がってダウンを着てケトルを持ち水を入れて、また名前の隣に腰を下ろして近くにあるコンセントに繋ぐ。
「俺、小学校からずっとバレーしかしてこんかったから自慢出来ることがバレーしか無かったんよ。そんで最近自慢出来る事言うたら名前が切ってくれた髪くらいや」
『……これ、私が切ったの?』
「せやで〜」
『短くない…?』
「切った瞬間に、あっ、って言うたからな〜」
俺がモノマネをいれながら言うと名前は目じりを下げて少し笑った。
『…あ、今まで何があったのか聞いてもいいですか?』
名前はカバンの中からあの手帳を取り出すと、そう言うた。俺は思い出しながら名前の質問に答えた。
「まずは1日目やな。名前が居ったのは3両目の2つ目の扉の所で立って外を見とった。んで俺が名前に一目惚れしてん」
『…一目惚れ?』
名前は書いていた手を止めて顔を上げて繰り返すと、言葉を理解したのか少しだけ頬を赤く染めた。
「そんで2日目は俺のシューズに穴が開いとったからスポーツ店に行ったわ」
俺は思い出しては笑いながら今まであった事を名前に話した。
「そんでな、名前で呼びあって……、」
『……どうかした?』
そこでふと、俺の言葉が名前の未来を縛ってしまうのやと気付いた。
そして、会えるのは今日で最後なのだと。
「っ、」
視界が歪んだと思たら次の瞬間には涙が溢れ出ていた。
「ごめんなっ、俺っ、かっこ悪い所ばっかり、見せとるなぁ…、」
『……あ、つむ、』
ぎこちなく呼ばれた名前に心臓が潰されたように痛みが走った。
「……お、れが、好きにならんかったら、名前は幸せにっ、なれたんかなぁっ、」
『…………』
勝手に出た言葉に自分でも驚いたのと同時に、ストンと心に言葉が落ちていった。
俺が名前を好きにならなければ、名前は自分の世界で好きな人が出来て、同じ時間を刻めたのかもしれん。
俺が名前を好きにならなければ、名前は自分の世界で家族が出来たのかもしれん。
俺が名前を好きにならなければ、
『………それは、無理だったんだと思う、』
「…無理?」
『…だって、私もずっと侑の事が好きだったから、』
「………え?」
名前は涙を瞳に溜めて俺を見上げると、持っていたコップを床に置くと俺の片手を握った。その手は飲み物を持っていたせいか温かく、冷えていた俺の手に体温を分けるようにじんわりと俺の手を温めた。
『……私は5歳の時に侑に救われてる。もうその時には侑の事が好きだったんだよ?今更好きになるな、なんて無理だよ』
「………せやけど、」
『私はたった30日間でも侑と会いたかった。たった30日だけだったとして、侑と一緒に居たかったの。だから私は今日、ここに来たんだもん、』
「…名前、」
名前の瞳からは涙が流れてポタリポタリと毛布に模様を残す。名前は涙を流しながら浮かべた笑みは、唇が耐えるように震えていた。
『侑が私に一目惚れしたって言うなら、私にとって侑は初恋で、今もずっと好きだよ』
「名前…っ、」
『たった30日だけだったとしてもっ、私は侑と一緒に居られて本当に幸せだったと思う。だって、私は侑の事が大好きなんだもん。幸せに決まってるっ、』
「俺かてっ、幸せやったっ、名前と短い間でもっ、ほんまにっ、幸せやった!世界一幸せやったって胸張って言えるっ、」
こんな言葉じゃ、俺の気持ちの1割も伝えられへんのに、喉が痛くて声が出ぇへんかった。自分の嗚咽はうるさいし、涙で視界は歪んどるし、俺の心の中が全部名前に通じてまえばええのに。
******
「…………」
『…………侑にとっては、今日が最後なんだよね?』
「……そうやな、」
日付が変わる10分前に俺たちはいつもの駅のベンチに腰を下ろして居った。無駄やって分かっとるのに繋がれた手に力を込めた俺は馬鹿なんやろうな。
『…………ねぇ、侑』
「ん?」
『……わたし、いい恋人だった?』
不安そうに零す名前を安心させる様にギュッと繋がれた手を離して指を絡めると名前も応えるように力を込めた。
「……これ以上無いくらいほんまにええ彼女やったよ」
『……そっか』
嬉しそうにマフラーに顔を埋めた名前は、また繋がれた手に力を込めた。
『…………こうやって、すれ違っていくんだね、私たち』
「………すれ違い、」
俺を縛っとった言葉のはずやのに、名前が零したその言葉に俺の心はスっと晴れた様な気がした。
「……ちゃうよ」
『え…?』
「俺たちはすれ違ってなんておらへんよ。端と端を結んだ輪になって一つに繋がっとる。2人でひとつの命なんや」
遠くから電車が来たせいで辺りが明るくなって名前の表情が良う見えた。名前は目を見開いて、優しく温かい笑みを浮かべた。
「……名前、」
ガタガタと電車の近付く音が聞こえて、タイムリミットが迫る事に心臓がグッと痛くなる。ブワッと風が吹いて電車が隣を通過した時、瞬きをすると次の瞬間には名前が消えていて、手にあった温もりが無くなっていた。
「……愛しとるよ」
呟いた涙声は誰にも届かずに、電車の音に飲み込まれていった。さっきまで感じていた温もりを閉じ込める様に手のひらを握るとポタリと何かが地面にシミを作っていた。
prev next