あなたの影を焦がす
『…………とは、言ったものの、』
どこに行くべきか、と名前は頭を捻る。まだ出て行く予定では無かった。早くても明日、きちんと荷物を纏める事を考えたら月曜日に出ていく予定だったのだ。
『………』
寒空の下、名前はフーっと息を吐き出す。白い息が空気に溶けて、姿を消した。それを見届けて、名前はスマホを取り出して数回操作し、耳に当てた。
∴∴
『急にごめんね…』
「いえ!ひとりで寂しかったのでちょうど良かったです!」
名前は十糸沢の家を訪れていた。スマホと財布のみを持って飛び出したは良かったが、…良くはないが、給料日がまだ先の中ホテルに泊まる訳にも行かず、十糸沢に連絡を取った。
「元彼と住んでたんで、やけに部屋が広く感じちゃって…。苗字さんが来てくれて良かったです!」
『本当に申し訳ない…』
「気にしないでくださいって!」
名前の前に湯気立つカップが置かれ、両手で包み込むように持ち上げて初めて、自分の手が酷く冷たい事に気づいた。
「それで、何があったんですか?」
『へ?』
「苗字さんって凄くしっかりしてるからアポ無しで来る事って無いと思うんです。あ、勿論来てもらって全然良いんですよ!?むしろ住んで欲しいくらいです!……人に気を使う苗字さんらしくないなって、少し思っただけです」
『……』
優しく微笑む十糸沢に名前はグッと奥歯を噛んで溢れる様に、堪えきれなくなった様に、言葉を零した。
『…私の彼氏、…元彼も、歳下なんだ』
「…………何となく、そんな気はしてましたけど」
『え、』
「だって苗字さん面倒見はいいし、しっかりしてるし、彼氏が歳下でも全然可笑しくないなーって」
『万が一に面倒見が良くてしっかりしてるとしたら、それは前の会社のおかげかな…、』
苦笑を浮かべながら名前はキュッとカップを握る。じわりじわりと温もりが移って、熱いくらいだったけれど、どうしてか手放す気にはなれなかった。
『その、元彼が今日飲み会だったんだけど、…女の子と歩いてるの見ちゃって、』
「……ホテルにでも入って行くの見ちゃいました?」
『…ううん、家の中に入るのは見たんだけど、』
「はァ!?」
『で、でも!その後すぐ帰って来たから何も無かったんだと思う!向こうも何も無かったって言ってたし…』
「そんなの分からないじゃないですか!」
自分の事のように怒る十糸沢に名前は気が抜けたように小さく笑う。冷えていた体にやっと血が巡ったような感覚だった。
『……多分、本当に何も無かったんだと思う、』
「なら、どうして、」
『……部屋に入って行くのは嫌。…あの子を抱きしめてたのも、もちろん嫌、』
名前の言葉に耳を傾ける十糸沢に、名前はフッと目を細めて、重たく、十糸沢には名前が自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
『…あの子の、……侑の未来を潰してしまうのが、やっぱり怖い、』
「……苗字さんは、」
その言葉に名前は目を見開いて、その言葉が妙にストンと心に落ちた感覚に瞼を閉じて、息を吐き出す。瞼を持ち上げると勝手に笑みが浮かんで、自然と言葉が零れ落ちた。
「……その彼のことが、大好きなんですね」
『……うん、……大好き』
その瞳は、たったひとりを映していた。
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