逃げるときはガラスの靴を持って




「ただいま」

『おかえりなさい』





女を振り切り、侑が帰宅すると、部屋からは唐揚げの香りがして、悪かった機嫌がまるで嘘のように笑みが浮かんでいた。





「唐揚げ!?よっしゃー!」

『手洗って来てね』

「はーい!」




侑は駆ける様に洗面所に消え、手洗いうがいをし終わると、鍋を覗いている名前の背中に抱きついてお腹に手を回す。




『……危ないよ』

「えぇやんか〜。それに明日は土曜日やし…」





いやらしさを含んだ声を出しながら名前の頬にキスを落とし、侑は少し首を傾げた。




「…?」

『もうできるから離れて』





まるで逃げる様に侑を剥がした名前はお皿を取り出して唐揚げを乗せていく。その間も侑は首を傾げる。いつもならキスしたら化粧品の何とも言えない味がしていたのに、今日感じたのは塩っぱさだった。




「名前、化粧品変えたん?」

『変えてないけど…?』

「んー?そういえばなんか今日は化粧薄いんやな?特に目元と頬の辺り…、」

『っ、』




侑の指摘に名前が慌てた様に頬を抑えた事に侑は更に首を傾げた。そして侑は何処か腫れぼったい名前の瞼に気付いて腕を掴む。




「……泣いとったん?」

『違うよ。何言ってんの』

「ならなんで慌てとんの」

『慌ててない。ほら、ご飯食べようよ』

「名前、」




視線を合わせない名前の顎を片手で掴み、無理矢理視線を合わせて、もう片手で前髪を持ち上げる。すると慌てた様子の名前が侑の手を掴んで抵抗をする。





『なっ、なにっ、』

「やっぱり泣いとった。目が腫れとる」

『っ、…テレビっ、テレビでっ、』

「ならなんで最初にそう言わへんの」






泣いた事を隠そうとする名前に、侑は苛立ちが募る。なんで俺に言わへんの。何を隠しとんねん。俺には言えへん事なのか。眉を寄せて口を開こうとした時、侑より先に名前が口を開いた。





『もういいから!』

「……は、……もういいって、なんやねん、」

『もう、いいから…、ここから、出て行くから、』

「…出て行くって、…なんで、」





鼻声でそう告げた名前に侑は目を見開いて固まる。必死に頭の中で何が原因かを探っても混乱した頭では思い当たる節すら出てこなかった。




「待って、…なんで?……俺、何かした?」

『やっぱり無理だったんだよ…、私達が付き合うなんて、』

「なんで、そんなこと、」





名前は侑に掴まれた腕を振り払うと、侑の胸元に手を置いて距離を取った。





『…荷物纏める時間が欲しい、月曜には、出て行くから、』

「待ってや…、なに勝手にひとりで決めとんねん、」

『だって私は邪魔でしょ』

「邪魔ってなんやねん、…意味わからん、」




名前が侑の隣を通り過ぎようとした時、侑が名前の手首を掴んで顔を覗き込む。





「名前、ちゃんと話しよ。なんか食い違っとる」

『いい…。ご飯作ったから食べてて』

「食べててって…、名前は?」

『私は食べたから』

「なら話そう」

『だから、もういいって…、』

「名前、」




少し怒りの含んだ声で名前の名前を呼んだ侑は寄せていた眉からシワがなくなり、目を見開いた。






『…もう、…分かってるから、』

「……名前?」





名前の瞳からはポロポロと涙が流れていたからだ。侑が頬に手を伸ばすと、名前はその手を払って小さく首を振ってポツリ言葉を吐いた。




『……今日、見た』

「見たって、何を…」

『…侑が、女の子と歩いてたの、』

「………女と、歩いてた…?」





思考を巡らせても侑に思い当たる節が無く、少しだけ首を傾げる。侑の中にあるのは名前に嫌われたのではないかという焦りと恐怖が支配していたからだ。





『…飲み会だったんでしょ、今日、』

「おん。…会社で飲み会が、……あ、」

『……仕事が長引いて、慌てて買い物行ったら、侑が歩いてるのが見えて、……そしたら、女の子と抱き合った後、…部屋に、』






名前の声は震えて、段々と小さくなっていて最後の方には聞き取れないほどだった。けれどすぐに侑は分かった。今日のあれを見られていたのだと。





「…ちゃう、あれは、」

『何も無かったんでしょ、』






どこか確信めいた名前の言い方に侑は安堵の息を吐く。それでも名前と視線は合わず、その瞳からは涙が流れ続けていた。




『……なにか、あったにしては、帰ってくるのが早かったから、』

「……なん、やねん、それ、」





その言い方ではまるで、もしも帰るのが遅かったら…。名前の言い方に侑は青筋を浮かべる。そんなの、自分の気持ちを信じてくれていない様な言い方ではないか、と。





「あれは、仕方なく部屋まで送っただけで、ほんまに何もあらへん」

『…分かってる、』

「分かってへんやん。俺が好きなんは名前だけや」

『………』




侑が何度言葉を紡いでも名前の表情は晴れずに、その瞳は少し虚ろで、諦めた様に見えた。





「なぁ…、名前、…俺が好きなんは、名前や。ほんまにあの女とは何も無いし、何とも思ってへん、」

『………私が、侑の未来を縛って、…奪ってる、』

「ちゃう、…ちゃうよ、そんなこと、絶対にあらへん、」





迷子の様に瞳を彷徨わせながら手を伸ばす侑に、名前はゆっくりと、まるで自分に言い聞かせるように唇を動かした。





『………ごめんね、侑、』

「なにが、」

『……別れよう、』





その言葉に侑は目を見開き、慌てて手を伸ばす。けれどその手は空を切り、名前は侑の隣を通り過ぎる。少しして玄関の扉が開き、閉じられる音がした。




「名前っ、」





その扉の音が、酷く侑の耳に深く突き刺さる様に響き渡った。

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