板子一枚下は地獄





「……本当に大丈夫なの?」

『ん?何が?』

「どんどん顔色が悪くなってる気がするの」

『……大丈夫だよ。ご飯だってちゃんと食べてるでしょ?』

「……名前、」

『本当に大丈夫だよ。心配しすぎ。私だって子供じゃないんだから』





心配そうに私を見るお母さんに笑みを浮かべて首を振る。本当に何でもない。ご飯だって食べてるし、ちゃんと寝ている。…うん、問題ない。





『夏油さんに呼ばれてるから出てくるね』

「無理しないでね」

『大丈夫だって。…いってきます』





家を出てフーっと息を吐く。夏油さんが言っていた百鬼夜行まで時間があまりない。非術師の居ない世界の実現。それが叶えばあの男達は消える。




『……全ての、非術師が居ない世界』




分かっていた。最初から。それでも夏油さんについてきたのは一時の安息を求めて。後悔はしていない。けれど、やらなければいけないことがある。





『…………殺さないと、』





最初から全部分かっていた。夏油さんは、



∴∴





『…………』





病院のICUの扉の前に立って息を深く吐き出す。この中にはあの男がいる。きっと意識だって戻っていない。殺すなら、今しかない。






『……………止めに来たんですか』

「勿論。教え子に人殺しなんてさせたくないからね」

『私がいつかここに来るのが分かってて、ずっと待ってたんですか?』

「ずっとではないけどね。見張りはつけてた」

『……護衛でしょ?この男の。本当にこの男に守る価値があるんですか?』

「さぁね。それを決めるのは僕達じゃないよ」

『なら誰が決めるんですか?法ですか?道徳ですか?それとも神様ですか?』

「神様なんて居ないし、法だって万能なわけじゃない。確かにこの男は悪人だ。だけど、だからって殺していいってことにはならないでしょ」






五条悟はそう言ってICUの扉を開けた。中には医療器具とベッドのみが置かれていた。





『…なるほど。既に逃がしたんですね、別の場所に』

「早めの行動。これ常識だからね」

『この様子だともうひとりも居ないんでしょ』

「うん」





本当に余計なことをしてくれた。探す手間が増えてしまった。…いや、五条悟の事だ。どうせ高専内に匿ってる。手の出しようがない。





『………私達はこれからも恐怖に怯え続けないといけないんですか』

「名前はもう彼らより強いはずだよ」

『私が言ってるのはその恐怖じゃない。…大切な人がいつ奪われる恐怖がアンタには分からないんでしょうね。少し目を離しただけなのに、傷付いて、奪われて。……アンタには、…分からないんでしょうね』

「海外に行けばその不安は無くなるの?逃げれば幸せなの?」

『海を超えればそう簡単には追って来れない。つかの間の安息でも十分です。それを繰り返せば問題ない』

「そんな保証どこにあるの?もし見つかったら?…今度こそ殺す?」

『……だったら、どうすればいいって言うんですか。ただ痛みに耐えろって言うんですか?死ぬほど辛くても、死ぬほど憎くても我慢しろって?』




どうして私達が我慢しないといけない。私達が何をしたっていうんだ。奪われる前に奪う。殺される前に殺す。それの何がいけない。





『私は、自分を犠牲にしてもあの人だけは助ける』

「名前が人を殺せば、君の大切な人は人殺しの親ってレッテルが貼られるだろうね。それでも殺す?」

『……それでも、私は殺します』

「……誰かに頼るとか考えないの?」

『頼る…?…誰に?私なんかに手を貸してくれる人間なんていない。……そもそも私は生きていてはいけないから』

「…どうして?」

『生まれた時から言われ続けてきました。お前なんか生まれて来なければ良かった。お前のせいだ。お前のせいで人が苦しむって。……私みたいな人間がいるから、…あの人は、』

「……名前、」

『……要らない私が死ぬ事であの人の足枷が消えるなら、私は喜んで死ぬ』




あの人の幸せの為に邪魔するものは全て排除する。それが唯一、私に出来る贖罪だから。






『アンタがあのふたりを隠しても必ず私は探し出して殺します。あの人が受けた傷の痛みだけ苦しみを返します』

「……君は、」

『失礼します』





五条先生と別れを告げると、全てを断ち切る様に扉を閉じた。何故かその音が酷く頭に響いた。





∴∴∴





「……棘」

「高菜」

「護衛お疲れ様」

「しゃけ」





五条は高専に戻り、地下へと降りて扉を開くと中にはふたりの男がベッドの上に寝かされていた。その傍には棘が待機しており、五条が姿を現すのと同時に顔を上げた。





「明太子!高菜!?」

「…うん、名前に会ったよ」

「すじこ!」

「残念ながら連れ戻せなかった」

「……明太子、」




五条の言葉に棘落ち込んだように肩を落としていた。そんな彼を見て五条はとある疑問を投げかけた。




「棘はさ、何で名前にこだわるの?」

「高菜?」

「僕だって名前の事は心配だけどさ。でも妙に棘は名前にこだわってるよね」

「………いくら、明太子」

「助けたい?」

「しゃけ、いくら、…ツナマヨ、すじこ」





棘は名前と出会ったあの日から、頭の中で名前の悲痛な叫びが忘れられなかった。




ーー私達のことは助けてくれなかったくせにっ!!




怒りや悲しみの入り交じった悲痛な叫び。狗巻はどうしても忘れられなかった。
呪術師は神様でもなければ、善人の集まりでもない。人を救える事もあるが、救えない命もある。善人を救えなくても悪人を救える事だってある。




「……高菜、」

「僕達はヒーローでも正義の味方でもない。ただ呪霊を祓うだけ。それで人が救われればラッキーくらいの立場の人間だ。救われた人間が善人でも悪人であろうとね」

「………明太子、」





棘には淡々と呪術師の道徳的正論を述べる五条と、罪を犯してでも大切な人を守り、悪人に手にかけようとする名前



どちらが正しいのか分からなかった。



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