秘密がスパイスになるなら
「そういえば転入とか親は何も言わなかったのか?」
『え?』
食堂で名前がカレーを食べていると目の前で生姜焼き定食を食べている伏黒が視線は外さないまま問いかけた。驚いて目を見開いた名前はすぐに笑みを浮かべてカレーを掬って口に含み咀嚼した。
『うん。特に何も言われなかったよ!』
「へぇ〜…」
『でもまだちゃんと荷物取って来てないから持って来ないとな〜…』
名前がスプーンで残りを掬いながら小さく呟くと伏黒が動かしていた箸を止めて顔を上げた。
「……結構荷物あるのか」
『え?…ううん、日用品はほとんど寮にあったから大丈夫なんだけど…、私服とかが無くて』
「……なら、手伝う」
『…………いやいや!大丈夫!本当に荷物少ないから!』
名前が首を大袈裟に振ると伏黒はまた食事を再開させた。
『……本当に、荷物少ないから大丈夫。ありがとう』
「…………」
静かに、けれどハッキリとした拒絶に伏黒はピタリと手を止めて顔を上げたが、名前はカレーと共に頼んでいた杏仁豆腐に手をつけて笑みを浮かべていた。
*******
「それじゃあ行ってらっしゃ〜い」
『いってきまーす!』
五条に手を振られ、名前は振り返したが隣にいる伏黒は制服のポケットに手を入れたまま歩みを進める。
「…………」
『それじゃあ新宿駅まで行こっか!』
「………あぁ」
名前の後に続く伏黒は後ろ髪を引かれながらも自分よりも小さく頼りない背中を追った。
「………………本当にこっちなのか?」
『え?うん!合ってるよ!』
伏黒は眉を寄せながら居心地が悪そうに辺りを見渡した。2人がいるのは所謂ラブホ街と呼ばれる場所で、昼のおかげで煌びやかな光は無いが、辺りにはそれらしい看板が並べられていた。
「……」
『本当にごめんね…、私は全然1人でも荷物持って来れるって言ったんだけど…、五条先生が…』
「…いや、別に」
名前は慣れているのかスタスタと細道を進んで行く。するとガラの悪い男達が所々に現れては2人をジロジロと見ていた。伏黒は睨み返しながら名前に少し近づいた。すると2人の前にガタイが良くガラの悪い2人組が現れて足を止める。伏黒は名前を隠す様に前に立ち、男達を睨む。
「………おい、」
「……なんだお前。俺達に何の用だ」
男の低い声に対抗するように、低く唸るような声を出す伏黒に男は機嫌を損ねたのか眉を寄せた。すると制服の裾をクイクイと引っ張られ伏黒は少しだけ視線を後ろに向けた。
『大丈夫だよ?』
「……はぁ?………おいっ!」
名前は伏黒の前に立ってガラの悪い2人組に近付いた。男のひとりが名前に向かって手を伸ばし伏黒が慌てて手を伸ばすが、男の手は名前の頭の上に乗せられた。
「名前元気だったか?最近見ねぇからどうしたかと思ったぜ」
『ごめんね!私転入しちゃったからさ!…転入って言ってもまだ入学すらしてなかったんだけど!』
「今3月だろ?入る高校変えたのか?」
『うん!』
親しそうに話す名前に伏黒は目を見開いて半端に伸びた腕は空を彷徨ったままだった。
「ところで夢茉は戻ってきたか?」
『………ううん、』
「そうか」
頭を撫でながら男がそう言った瞬間、名前の表情が少しだけ曇った様な気がした伏黒だったが瞬きをした時にはいつもの笑顔に戻っていて見間違えか、と伏黒は息を吐き彷徨っていた手を下ろした。
「戻って来たら教えろよ」
『うんっ!』
手を離して去って行った男を見送った名前は伏黒の方へと振り返った。
『ごめんね!時間取らせちゃって!』
「知り合いか?」
『……うん、お母さんの知り合いなの』
それだけ言った名前は背を向けて歩き出した。突然歩き出した名前に伏黒は慌てて後を追うとその表情はどこか影を帯びていた。
「…苗字、」
『あっ!あそこ!あのアパートが私の家なの!』
指差された先を見ると小さく綺麗とは言えないアパートが建っていて、階段を登る度にギシギシと今にも崩れそうな音がして伏黒は慎重に階段を上がった。
『ボロくてごめんね〜』
「……おう、」
名前は鍵を取り出して扉を開けると中は見た目と反して少し広く見えた。
「意外と中は広いんだな」
『広いかな?寮の方が倍広いよ!それに広いのは物が少ないからじゃないかな?』
物が少ない、と言われて伏黒は妙に納得をしてしまった。物が少ないというよりかは物が無いの方が正しい様な気がした。普通の家ならばテレビやテーブル、少なくとも何かしらの物はあるものだが、この家には何も無かった。
『付き合わせてごめんね!私の荷物これだけだから』
名前が持ってきたのは小さな手提げのみで伏黒は驚いた様に目を見開いた。名前はそんな伏黒を見上げて名前はいつもの様に笑った。
『それじゃあ行こっか!』
名前は部屋を出るとそのまま1階のとある部屋を尋ねた。
「………はい?」
『あっ、お久しぶりです。2階に住んでた苗字です』
「………………あぁ、あの」
『…これ、鍵です。お世話になりました。部屋は元の通りにしておいたので』
「………そう」
随分と愛想の無い女だな、と伏黒は自分の事を棚に上げてそう思っていると名前は笑って鍵を渡していた。ふいに大家とみられる女が伏黒を見ると、女は眉を寄せた。
「……母親と同じね」
『………………今までありがとうございました』
伏黒は女の言葉の意味が分からず首を傾げると、名前は笑みを浮かべたまま伏黒の制服の裾を掴むとアパートの敷居を跨いだ。
「苗字、」
『あっ、ごめんね!急に引っ張って!』
「それは、まぁ…」
名前は立ち止まるとまた笑って来た道であるラブホ街を歩き出した。その笑顔がこの街には似合わなくて伏黒は目を細めた。
『それじゃあ戻ろうか!』
「………あぁ」
戻ろう、その言葉が伏黒にはあまりにも他人行儀に聞こえて無意識に右耳を右手で押えた。