12話 名をつけない感情
『…師範?どうかされましたか?』
「……」
師範は私とカナヲの繋がれている手をジっと見ると、私とカナヲの間に割って入り私を隠す様に背中を向ける。
『……師範?』
「……傷薬は貰えた様だな!」
『あ…、はい!』
「ならば戻ろう!」
「………あらあら、煉獄さんはあまり余裕が無い様ですね?」
『…え?』
「ははっ!よもやだ!」
師範は笑いながら出て行ってしまい、私は蟲柱様とカナヲに頭を下げ師範の後を追った。その場で蟲柱様だけが楽しそうに笑っていた。
「……抱いていたのは、煉獄さんの方だったようですね」
その言葉にカナヲは首を傾げていた。
*******
『師範!』
「……」
『…師範!』
「…っ、あぁ、なんだ!」
『上の空の様子だったので…、どこか体調が悪いんですか?』
「いや!何処にも変化はない!大丈夫だ!」
『…なら、良いですけど…、』
けれど何処か師範の表情は冴えなかった。
*******
辺りが静まり返った夜中、煉獄はパチッと目を開いた。
「……」
上手く寝付けずに煉獄は天井を眺めていたが、それにも飽きて布団から抜け出し、静かに台所を目指した。
『……師範?』
「名前か」
不意に自分とは違う高い声に煉獄は顔を向けると、部屋の襖から名前が顔を覗かせた。
「すまない。起こしてしまったか」
『いえ。たまたま起きていただけです』
仕事柄、足音を立てない事には慣れていたが屋敷の中に居るせいで気が緩んでしまったのかと煉獄は自分を心の中で叱咤すると名前は首を振って否定した。
『本当に起きてただけです。師範はどうかされましたか?』
「少し喉が乾いたのでな」
『そうでしたか』
そう言って名前は小さく微笑んだ。その笑みを見て煉獄は昼間の蝶屋敷を思い出していた。
自分の知らない笑い方、自分に向けたことの無い楽しそうな声
そして、握られていた手のひら
それが自分では無い人間が名前に触れ、楽しそうな声や笑みが他の人間に向いていると知った煉獄の心の中には黒い感情が渦巻いていた。
だがその感情に名前を付けることは出来なかった。
ーー否、付けてはいけなかった。自分は彼女の師であり、家族だ。
「……明日も稽古がある。もう寝た方がいい」
『はい』
そう返事はしたものの部屋の中に入ろうとしない名前に煉獄は首を傾げる。
『……きっと明日は晴れですね』
「…………そうだな」
突然の会話に煉獄は少し驚いたが、なんとか言葉を返すと名前はそのまま続けた。
『……最近、少し肌寒くないですか?』
「…肌寒い?」
今の季節はお世辞にも寒いとは言えなかった。当たり前だ。名前と暮らし始めてから数月経っている。季節は巡り、寒くなっていた時期は終わり今は暑くなり始めていたのだから。
『肌寒いと少し、不安になります』
「……」
『夜は苦手です。勿論、鬼が活動し始める事もですが…。何より闇が広がるようで、怖さを感じます』
名前の言葉はきっと本気では無いだろう。名前はこの屋敷に来てから夜に見る藤の花が気に入っていた。昼の明るい時に見る時も違って、夜に見る藤の花は風情があった。名前は夜が来る度に、縁側に腰をかけて月を見上げ、藤の花を楽しんでいたのを煉獄は知っていた。
『……だから少し、一緒に居てくれませんか?』
そこで煉獄は名前の言葉の意味に気付いた。
「……少しだけだぞ」
『ありがとうございます』
煉獄は廊下に座り込むと名前が襖を開いた。けれど煉獄は首を左右に振った。
「こんな夜更けに女性の部屋には入れない」
『……配慮が足りず、すみません』
名前は少し目を見開いて、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。その表情に煉獄は一瞬息を止めた。
『……今日は満月ですね』
「…あぁ、そうだな」
『…明日は任務ですか?』
「…あぁ。だが、長くはならない」
『なら、夕餉の準備をしておきます』
「頼む」
周りには誰も居ないのに何故が夜は声を潜めてしまう。小さく零された会話を誰かが聞くことなんて無いのに。けれどその落ち着いた声が煉獄は気に入っていた。いつもの様な明るい声も好きだったが、今のように優しさで溢れた声もまた、煉獄の心にストンと落ちていった。
『……疲れてしまいましたか?』
「…いや、」
『…たまには休んでくださいね』
「…あぁ、」
名前の優しい声が煉獄の心を覆っていた黒い感情を少しずつ払い散らしていく。その感覚が心地良くて煉獄は瞼を閉じた。
『………少し、肌寒いですね』
「……」
『だから、手を握っても良いですか?』
時々、名前に心を読まれているのでは無いかと感じる時があった。全てが分かる、とまではいかないが、名前には全てを包み込んでしまうような温かさがあった。今のように柄にもなく心が揺れている時、名前はまるで自分がそうしたいのだと言わんばかりの物言いで、こちらがして欲しいことをやってのけてしまう。
『………やっぱりまだ夜は肌寒いです』
「…そうだな」
暑さで汗をかき始めている手のひらからはじんわりと汗が滲んだけれど、どうしても離す気にはなれなかった。
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