07
未明から降り続けている雨は、当然ながら鴎台の裏庭もじっとりと濡らしている。裏庭が使えないなら光来も迎えに来ないかも。そう期待していたが、残念ながらそんな都合のいいことはなかった。
「裏庭は無理じゃない?」
「いいから来い」
そう言って光来が連れて行ったのは、いつもより少し歩いた場所にある第二体育館だった。中では生徒たちがバスケなどの球技で遊んでいて、その中を光来はどんどん進んでいく。
着いたのは二階のギャラリー。試合を立ち見できるスペースにはひよりたち以外も立ち入っており、真下で遊ぶ生徒たちを見学する者、背を向け談笑する者と様々。
細いとも広いともいえない、絶妙な幅の通路を進んでいった先に幸郎は居た。柵に寄りかかり、あちこちに移動するバスケットボールの行方を追っている。
近づいて来る二人を目に留め、幸郎は丸めていた大きな背を伸ばした。
「ひよりちゃん、昨日ガオに会ったんだってね」
挨拶もなくそう言われ、思わず足を止める。
「ガオ?」
「うちの部に、クソデケェ一年がいるんだよ」
光来が振り返り、鼻に皺を刻んで返した。
昨日のことと、光来の言う『クソデケェ』を足して、多目的ルームでぶつかったあの男子のことだと気づく。
「バレー部の人だったんだ……」
そこまで考えは至らなかったが、あれだけの長身ならバレー部やバスケ部は放っておかないだろうし、どちらに所属していてもおかしくない。
一年生に幸郎以外にもとても背の高い男子がいるというのは元々知っていた。恐怖を抱いているものほど、事前に知っておいて心の準備をしておきたい。廊下でごくたまに、飛び抜けて高い頭を見つけることがあって、そういうときはすぐに目線を下に落として、認識されないようにと願ったものだ。
妙なところで縁が繋がってしまった。昨日の今日で忘れていたわけではないが、あのときの男子の声がまた頭の中で繰り返され、後ろめたさが胸の中で燻るように蘇る。
「……怒ってた?」
「怒ってはねえよ。愚痴ってただけだ」
「化け物に遭遇したみたいに怖がられたって言ってたから、すぐにひよりちゃんのことだって分かったよ」
やはり相当ショックだったらしい。知らない場所での彼の反応を想像し、傷つけてしまったことがつらい。
「謝った方がいいよね?」
「そんなの自分で決めろ。謝りたいなら会わせてやる」
「やだ!」
「うるせえ!」
反射的に大声で拒否したひよりに、光来は上回るほどの声で怒鳴り返す。
訊ねた形だったが、あんな態度を取って愚痴を言わせたなら、謝った方がいいと分かっている。
分かっているが、それと彼と対面するかはまた別問題で、彼が同じ一年生だと知った今、廊下でうっかりすれ違ってしまうことを考えるだけで、どうしようどうしようと不安に煽られてしまう。
「俺たちで軽く事情は話したし、愚痴ったっていってもそこまで気にしてたわけじゃないから、とりあえずはいいんじゃない?」
幸郎の言葉に、じゃあいいか、と思ってしまった。自分よりも彼を知っている幸郎がそう言ってくれるのだ。幸郎が言ったからと理由をつけて、とりあえずはこのままで。
「でも……傷ついたって、言ってた、から」
「あいつがか?」
問う光来へ頷いた。
ずっと伏せていたので声だけでしか判別できなかったが、決して愉快ではなかったとだけは断言できる。大なり小なり、ひよりの態度に嫌悪感を抱いたのは違いない。
ありがとうは躊躇いなく、ごめんなさいは遅れずに。小三のときの担任教師が優しい口調で説いた言葉には妙な重みを感じて、今でも鮮やかに記憶として残っている。
謝れない子の周りからは人が居なくなるのよ、と幼い頃に母親からも言われたことがある。自分の非を認められない、謝るべきときに言葉を尽くせない相手とは、誰だって仲良くなりたいなんて思わないと。
今はまだひよりには友人がいる。男子だったら光来も、幸郎も理解してくれている。しかしいつまでも慣れた相手と一緒に居るわけじゃない。大人になったらひよりは社会の荒波を一人で生きていかねばならず、人間関係を自分一人で構築しなければならない。
「このままじゃ、引きこもりになる」
「引きこもり?」
「男嫌いをどうにかしなきゃ、将来は引きこもりになるって言ったんだよ」
「容赦ないな〜」
未来を憂うひよりに、光来は腕を組んで柵に背を預けた。
「じゃ、会うのか?」
「それは……まだ」
「んだよ」
「俺よりデカいからね。目の前に立ってるだけでひよりちゃんの息が止まりそうだよ」
幸郎が冗談にもならないことを言う。あのときの圧迫感、そして恐怖。それはもちろん驚くほどの長身を前にしたからだが、それだけじゃない。
「それも……ある、けど……」
ぼそぼそと口を開いたひよりを、光来と幸郎が物珍し気に見やる。いつもよりよく喋るな、と物言わぬ目が語っている。
「似てた、から」
「似てたって?」
「……いじめてた、人」
ぽつりと、埃が端に溜まる床に落とした言葉は、体育館の喧噪に紛れて潰されそうなほど小さかったが、耳を傾けていた二人には届いたらしく、どちらも目を見張った。
「それはそれは」
「デカいうえにそいつに似てるなら、そりゃお前にとっちゃバケモンと同じだな」
恐怖と恐怖が掛け合わされた状況だったと知ると、二人もさすがに同情的な姿勢を見せた。
先日会った彼と目が合ったとき、図工でよく使った透明のセロハンを組み合わせるみたいに、あの男子がぴたりと重なった。ひよりはもうその瞬間から、自分の体なのに精神だけがどこかに置き去りにされて、それこそ本当に息の仕方を忘れた。
謝るべきと思っていても、忘れ難い恐怖で体も心も拒んでしまう。でも、そんなひよりの苦悩を、社会はいちいち拾ってあげて気を配ったりしてくれない。だけど、けれど、それでも。
「ひよりちゃん」
黙ったひよりを幸郎が呼ぶ。黒目がちな目の下の、大きな口が孤を描いた。
「俺から逃げずに、こうして話せるようになっただけ、結構な進歩じゃない?」
言われて、そういえばと思う。以前は幸郎の顔なんて見ることも難しかった。でも今は目を合わせていても、ちょっと居心地が悪いくらいで、前のように悪寒が走ることも窒息しそうな不安もない。
「どうせ同じ学校なんだから、謝りたかったらいつでも場は作れるんだし、急ぐ必要もないと思うけど、どう?」
「いいんじゃね」
「じゃ、この話はこれで一旦おしまい、ってことで」
光来がそう返すと、幸郎は大きな両手を広げて見せて、勝手に話を切ってしまった。
また、幸郎がそう締めたから、じゃあいいかと甘えた考えが過ぎる。ちっともよくないのだが、かといってこのまま続けていても堂々巡りになるだけ。完全に忘れるのではなく、付箋にメモして頭の中に貼っておくのだと、自分に言い聞かせた。