シュガーレス | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -


03

 苦手克服の訓練を通じて幸郎と関わるようになって一週間。ひよりはある日、クラスの女子から「ねえねえ」と声をかけられた。

「ヒルガミくんと仲良いの?」

 女子の問いに、ひよりは当初、誰のことを指しているのか分からなかった。

「ひるがみくん……?」
「幸郎くんのことだよぉ。昼神幸郎くん」

 女子が発した『ヒルガミくん』に覚えがないひよりの様子を察し、友人がそっと幸郎の名を出して、ひよりはそのとき初めて自分が幸郎の名字を知らないことに気づいた。

「昼神くん、なんだ。名字」
「うん。え、知らなかったの?」

 驚く友人にひよりは黙って頷いた。光来が幸郎と呼ぶからその名しか教えてもらっていないし、彼も改めてフルネームで名乗ったりしなかった。
 生徒全員が履いている上履きには記名するのが強制なので、一目見れば分かるものの、その確認はひよりにとって容易いものではない。
 幸郎がそばに居るときのひよりは、はっきり言って思考がまともに働かない。頭も心も男子への恐怖で占領されて、それから逃れるにはどうしたらいいか焦るばかりだ。幸郎を見やることも苦しい状況の中、その大きさから『男子』を否応なく連想させる足下など、ひよりがまともに見られるわけがなかった。

「で、仲良いの?」
「……良くはないよ」
「そうなんだ? でも昼神くん、別クラなのに蓼科さんに声かけるよね」

 クラスメイトに指摘され、一瞬言葉に詰まる。幸郎はひよりと顔を合わせると必ず声をかけるようになった。主に遭遇するのは一年の廊下だが、声の届かない場所からでも、目が合うと存在をアピールするかのごとく手を振るようになった。その度にひよりは身を固くし、黙礼してそそくさと逃げている。
 事情を知らぬ者からすれば、別のクラスの幸郎がひよりを構う状況は、二人の関係性が良好なものに見えてもおかしくはない。

「光ちゃんがバレー部で、なんか、多分、仲良いから?」
「ああ、星海くんのね」

 光来の名を出すと、クラスメイトはすんなり納得した。光来がひよりの従兄というのは、光来がこちらの教室に顔を出すようになってクラスの大半に周知されている。その光来と幸郎が親しいからというのも、彼女は知っているのだろう。背の高い幸郎と低い光来。その凸凹の組み合わせは印象強い。

「なんか友達がね、昼神くんと蓼科さんって仲良いのかなって気にしてたから」
「あ、そう、なんだ……」
「うん。ごめんねー、ありがと!」

 クラスメイトは礼を言って、自分の友人の下へと戻って行く。友人らの話の輪にすぐに解け込む姿は、眼下検診で注視させられるランドルト環の空いた隙間にぴたりと収まるようで、つい目で追った。

「びっくりしたねぇ」
「うん」

 普段話す仲でないのに突然話しかけられたことも、幸郎のことで問われたことも、幸郎の名字が昼神だということも、一気にやってくるとひよりの蚤のような心臓には刺激が強い。
 自分と幸郎との仲を気にした友達とやらは、つまり幸郎を恋愛対象として気にかけているのか。そうでなければひよりとのことなど目にも留めなかったろう。

「だめだよね?」
「何が?」
「名前で呼ぶの」

 幸郎と自分は友人ではない。じゃあなんだと訊ねられると、先ほどのようにすぐには答えられない。説明が面倒だ。ひよりが男子が苦手なことから話さなくてはならなくなる。何が悲しくて自分の弱みを語らねばならないのか。

「んー。名字じゃなくて名前で呼んでるところ見たら、仲良いのかなって受け取っちゃうよねぇ」

 友人もそう言っている。だったらやはり名字で呼ぶ方がいい。
 そうしようと決め、ひよりは光来に連れられて、その日の昼休みも渋々裏庭へと向かった。



 裏庭にはいつも幸郎が先に来ている。空いているベンチの一つに腰を下ろし、ひよりはその隣のベンチに。
 幸郎とここで会うのはまだ数回だが、廊下での接触はもっと多い。一日に一回は幸郎からアクションがあるので、最近では幸郎の姿がないか常に気を払っている。

「今日もひよりちゃんは怖がってるね」
「たった数回で克服できるならお前の手は借りねえよ」

 隣のベンチに座る幸郎を、ひよりは全身で感じている。幸郎の声は耳に届くし、視線が肌に刺さっている気になるし、頭の中では隣の幸郎を警戒せよとサイレンを鳴り続いていて、ひよりは手のひらにじっとりと汗を掻いた。

「でも光来くんも結構怖いと思うけどな」
「は?」
「ほら、そうやって睨むからさ。『ちっちゃいけど怖い』って恐れられてるよ」
「はあ!? おい、んなこと言ってんのはどこのどいつだ!?」

 幸郎の言葉に光来が怒鳴る。光来の声が聞こえると、従兄はちゃんとそこに居て幸郎と二人きりではないと安心できる。

「光来くんってチワワ似だよね」
「てめェ、喧嘩売ってんのか? なら買ってやる。表に出ろ!」
「ここ表だよ。裏庭だけど」

 幸郎と光来の会話は、たいてい光来が苛立っている。もちろん光来が怒らず、淡々と話が進んでいる日もあるのだが、幸郎は何かと光来が嫌いな言葉――自分を小さいと指摘したり、それに準ずる単語を使うので、そのうち光来の頭の血管が千切れるのではないかヒヤヒヤしている。
 だけどよく二人でいるところを見るから、仲は悪くないのだろう。男子の友情というのはそういうものだと思うことにした。

「ね。ひよりちゃんは、俺と光来くんだったらどっちが怖い?」

 急に話を振られ、そちらに向けていた顔をすぐに足下へ戻した。どっどっどっ、と心臓が早鐘を打つ。

「お前に決まってんだろ」
「えー、でも光来くんすぐ怒鳴るし、可能性は無きにしも非ずじゃない?」

 結果は見えていると断言する光来に対し、幸郎は望みはあると返した。
 そんなものあるわけない。怖いのは幸郎だ。光来も怖いけど、その怖いは親に叱られるときの恐れに近い。幸郎に対する恐怖は、ときおり死が頭を過ぎるほど冷たくて切羽詰まっている。

「ひ、るがみくん」

 初めて口にした幸郎の名字は、変なところで区切ってしまったけれど、発音はしっかりできた。
 言えたことと、光来より幸郎の方が怖いと告げたことへの反応を窺うべく、ちらりと横目で見ると、幸郎の顔は拗ねていたりつまらなかったり、笑ってもいなかった。そういった感情が一切なくて、逆に怖い。

「なんで?」

 問われる。光来より彼が怖い理由だろうか。そんなこと、幸郎はもう知っているだろう。ひよりは光来など一部を除いた男子が怖いのだ。だから当然、幸郎が怖いに決まっている。

「なんで名字になっちゃうかな」

 幸郎の問いは、ひよりの想定とはまったくズレたところに向けられていて、音に鳴らない声が口からこぼれた。

「だっ、て……」

 言い訳しようと思っても、どう伝えればいいか考えあぐね、言葉は続かない。遠ざかっていた眩暈がまた戻ってくる。
 光来が不在だと同じ場に居られないような関係だから、名字で呼ぶのが自分たちの適切な距離だ。そうじゃないと、クラスメイトの友人みたいに、ひよりと幸郎の仲を誤解する者が出てくる。そんなことひよりは望んでいない。

「慣れるための訓練なのに、距離を取ってどうするの」

 内心を読んだみたいに、ひよりの考えは切り捨てられた。幸郎の落ち着いた声音で言われると、それが正しいと錯覚しそうになる。
 実際、ひよりと幸郎が接触するのは苦手を克服する訓練のためであって、むしろ距離を詰めていく方がどちらかといえば正しい。
 しかし、ひよりは幸郎と距離を詰めたいわけではない。ただ男子の存在に慣れたいだけ。男子が傍に居ても窮屈な思いをしなくて済むようになりたいだけ。失礼なのは百も承知だが、手伝ってくれるのは幸郎じゃなくていい。できればもっと背の低い人がいいと、今だって思っているくらいなのに。
 いろいろと考えているものの、それらの百分の一も伝えられない。伝えるのも怖い。幸郎が怖い。

「お前、怖ェってよ」
「心外だなぁ」

 大して感情のこもっていない幸郎の返しに、光来は「嘘くせえ」と突き放した。ひよりも同じことを思ったが、それも決して口にはできなかった。
 結局、ひよりが幸郎を名字で呼んだら訓練の意味がないという話でまとまって、ひよりが彼を『昼神くん』と呼んだのは、その一回きりだった。

20240203

prev | top | next