02
従兄のおかげで手に入れた、小中時代と打って変わった心穏やかな日々は、その従兄によって崩された。昼休みは大半の生徒にとって、放課後に次いで好きな時間だ。
鴎台の食堂は安価なうえに量も多く、味も良いと在校生や卒業生から評判がいい。
購買部では近隣のパン屋が特別に卸している、カモメの姿を模した『カモメパン』なる名物パンも販売されており、毎回すぐに売り切れてしまうほど人気がある。
食が充実しているのは育ち盛りの生徒には嬉しい環境で、昼食時間になると校舎内は特に賑わう。先日まではひよりにとっても昼休みは早く来てほしくて仕方ない時間だったが、今日からは違う。
「ひよりちゃん、顔色悪いねぇ」
「……行きたくない」
「うん……。でも星海くんが迎えに来るんでしょ?」
ぽつりと返すひよりに、友人は頷きつつも辛い現実を口に出した。
光来に連れられて中庭へ行ったあの日に、ひよりにとっては余計なお世話でしかない話し合いが進み、今日は光来と、彼の友人であるあの男子と昼休みの後半を過ごすことになった。
目的はもちろん、ひよりが恐れる男に慣れるため。光来からは、弁当を食べ終わったらひよりを迎えに来ると言われている。
「星海くんが来る前に、早く食べた方がいいよぉ」
友人に促されひよりは箸を進めた。どうせ嫌がっても光来に連れて行かれるのだから、来る前に食べてしまった方がいいのはその通りだ。
弁当箱を空にし、ノロノロと片付けをしていたところで、タイミング良く――ひよりには何もかも良くはないのだが――光来が教室にやってきた。
「ひより、行くぞ」
有無を言わさないその態度に、ひよりは黙って従った。この従兄には逆らっても無駄なのだ。
心配そうな友人に見送られ、光来の後に続いて校舎を歩き、あの中庭へ向かう。陽射しがあまり届かない中庭は通称『裏庭』と呼ばれているらしく、教室棟から遠いので利用する人は少ない。
裏庭にはすでに先客がちらほら居て、先日とは別のベンチにあの男子が座って待っていた。
「こんにちは」
ひよりと光来が来たのに気づくと、男子はひらひらと手を振って迎えた。すうっと気が遠くなりそうだったが、光来がベンチに座れと指し示した際には全力で首を振った。
「そっちのベンチが空いてるよ」
裏庭のベンチにはまだ空きがある。まだ誰も座っていない隣のベンチなら距離が取れていると判断し、ひよりはそちらのベンチに一人で腰を下ろし、光来は男子と同じベンチに座った。
「大丈夫? 俺の名前覚えてる?」
少し離れた先から男子が訊ねた。隣のベンチとはいえ、動悸は鎮まる気配もなく、吐き気も催してきた。
深呼吸だ、と意識して深く息を吐き、吸う。ひよりが落ち着こうとしているのが分かったのか、光来たちは答えを急かさず待っている。
「しゃちろおくん」
「幸郎ね。シャチじゃないよ」
気持ちを整えたはずなのに、呂律が回らずおかしな発音になった。恥ずかしさでまた頭がくらくらとしてくる。いつもこうなのだ。自分の体なのに儘ならない。
ひよりとて、世の男子全員が怖い存在ではないと分かっている。ひよりにいじわるをしてくるのは例の男子だけ。それ以外の男子に害を為されたことは一度もない。
いじめてくるのはただ一人。だから目の前の男子――幸郎を恐れる必要がないことも分かっている。
けれど、頭では分かっていても、体が勝手に反応してしまう。心臓が跳ねて胃がぎゅうっと絞られて、呼吸が乱れてきて、全身から力が抜けて、眩暈がしてくる。そうすると、ままならないこの体にもまた怖くなって、さらにひどくなって。そのループからひよりは逃げられず、今に至っている。
「怖がってるね」
「デカいから余計にな」
ひよりの内心など知らずに、光来たちは呑気にひよりを観察してくる。つらい。でも足に力が入らない。この時間に堪えるのが、ここに連れられて来た目的なのだから我慢するしかなかった。
先日の昼休みに、不本意ながらひよりの苦手克服計画の話が進められ、週に何度かこうして三人で会う時間を設けようと流れになった。
「あ、会うの?」
今現在、いじめてきた男子を除けば最も避けたい相手だというのに、わざわざ接触するのかとひよりは不満の声を上げたが、光来によって叩き落された。
「骨は折れてもくっついたらさらに強くなる。心も同じだ」
「いやぁ、骨はともかく、ほとんどの人の心は折れたら折れっぱなしだって。玉鋼みたいな心持ってるのは光来くんくらいだから、比べちゃ可哀想だよ」
「玉鋼ってなんだ」
「刀の材料」
「ふーん。幸郎にしてはいいこと言うじゃねえか」
光来らしい持論には、幸郎が一言物申した。光来の心が刀の材料とは言い得て妙で、今の光来は打たれに打たれて出来上がっている。
幼少期から体格に恵まれた兄によって悔しい思いをし、ずっと続けているバレーも中学の三年間は控えだったが、それでも絶えず努力をしてきた。だからか、今更どんな逆境にも挫けることはない。光来の持論に倣うなら、光来の心は幸郎が言うとおり、打ち終えて仕上がった刀のようだ。
「頭で理解してても体が勝手にそうなっちゃうんだよね? なら男と居ても怖くないんだって思える時間を過ごして、体が慣れてくるのをじっくり待つべきじゃないかな」
幸郎は自分の状態を語ったひよりの――正確には緊張でとっちらかったひよりの言葉を要約した光来の言から、ひよりの男子への恐怖を払拭するにはどうすればいいのか考えた。
やはり光来と似たり寄ったりな提案だが、あくまでもゆるくやっていこうというスタンスを示したので、ひよりも強く断ることができず、流されるまま計画は立てられた。
そうして進められた、苦手克服計画の一日目に当たる今日。ひよりは仮病を使おうと思ったが、朝起きたら『サボんなよ』と光来からメールが来ていたので、渋々登校した。久しぶりに来た連絡がこれだ。長年の付き合いから、光来はひよりの思考をうまく読んでいる。
陰鬱とした気持ちで授業を受け、時計の針なんて止まってしまえと思ったものの、四限目の終わりを告げるチャイムは慈悲もなく鳴り響き、ひよりは光来に連れて来られた。
「ひよりちゃん、これ」
幸郎の方を見られず、自分の上履きをじいと睨んでいたひよりに、幸郎が声をかける。ゆっくり、ゆっくりと顔を上げ横に向けると、幸郎が何か差し出していた。
「お近づきの印」
学校の自販機で売られているチョコのウエハース。高校にはジュースだけでなく食べ物の自販機まであるなんてと感激し、一時期よく買っていた。ただ、自販機で買うよりドラッグストアやスーパーで買う方が安いと思い直し、最近はずっと食べていなかった。
ひよりにあげるという意は伝わったが、ひよりは手を伸ばせない。今でも幸郎がこちらを向いていることが怖いのに、指の先でも彼に近づくなんてできない。
「いくよ」
幸郎がチョコのウエハースを投げる素振りをするので、慌てて身構えた。下から上へ、弧を描くようにポイと投げられ宙に飛び出した薄型の箱を、ひよりはしっかりキャッチした。
掴んだまま幸郎をそっと見やると、口元を少し緩ませたあと、彼は光来へ向き直り「今日の朝練のときさ」とひよりに背を向けた。
ウエハースをあげたきり、幸郎はひよりの方を見ようともしないで、バレー部ではないひよりには分からない話を二人で続けている。おかげでひよりの体の強張りは徐々に解けていったが、一人ぽつんと放り出された形で、それはそれで居心地が悪い。
貰ったお菓子を手に持って、ただただ時が過ぎるのを待った。手持無沙汰で食べてしまおうかとも思ったけど、弁当を食べたばかりだし、何より緊張して食べたいという気にすらなれなかった。
隣のベンチで続く光来たちの話を耳に入れ、じっと座り続けていたら、待ち望んでいた予鈴が鳴った。やっとだ。やっとこの時間が終わる。
ベンチから立ち上がった二人に続いて、ひよりは裏庭を出て教室へ戻る、凸凹の後ろを歩いた。
背を向けられていると恐怖心は幾分マシで、見慣れた光来の背中と、見慣れない大きな背中の差をはっきりと目にして、本当に大きいなと見上げた。
「じゃあな」
一年の教室が並ぶ階に着き、光来がそう言って自身の教室へ入って行った。光来の教室はひよりたちより手前にある。大きな背中だけが残って、歩を遅めて距離を取った。
幸郎はどこのクラスだろうか。時折すれ違う男子に緊張しながら進んでいたら、先に自分の教室に着いた。廊下に面した開けっ放しのドアから、このまま黙って中へ入ってしまおう。
「ひよりちゃん」
そんな自分の思惑を察したように、前を向いて歩いていたはずの幸郎は足を止め振り返っていた。
「またね」
言って、幸郎はまた廊下を歩き続け、隣の教室へ入って行った。どうやら幸郎はひよりのクラスの隣らしい。
もうあっちの方へは近づかないと心に決めて教室に入ると、自席に座っていた友人がわざわざひよりのそばまで来てくれた。
「ひよりちゃん、大丈夫だった?」
「まあ……うん」
精神的疲労はあるものの、思ったほどではない。男子に慣れる訓練ということだから、てっきり光来の調子だと幸郎と無理矢理にでもお喋りさせられるのかと思いきやそうではなかった。ひよりの存在をすっかり忘れたように、二人でサーブがどうのブロックがどうのと話していた。だから激しかった動悸もゆっくり鎮まって、手足にも力がじわじわと戻った。
「それ、どうしたの?」
「……貰ったの」
友人が、ひよりの手の中にあるウエハースの箱を見て訊ねる。受け取ったきり、開封すらしていない。
お近づきの印、と幸郎は言っていた。ひよりは『お近づきの印』という意味の正解は知らないが、引っ越しの挨拶に蕎麦を配るのと同じか、それに近いものだろうという程度のうっすらとした認識があった。
自分もお返しすべきだろうか。一方的に貰ったままでは、なんだか気持ちが落ち着かない。
五限目の次は移動教室だったので、ひよりは教室へ戻る際に寄り道し、幸郎も利用したであろう菓子の並ぶ自販機でチョコバーを一本買った。
光来もこのチョコバーを食べていたので、同じバレー部員の幸郎もきっと食べるだろう。ひよりが彼について知っているのは、随分と高身長であることと、バレー部に入っていて隣のクラスだということくらいで、情報は無に等しい。
放課後になってすぐ、ひよりはバッグではなく買ったチョコバーを手に持って友人に、
「ちょっと、これ、行ってくるね」
と一声かけた。チョコバーの事情を知っている友人が、ここで待ってるねと返したので、ひよりは急いで教室を出た。
廊下を歩くのは女子、そして男子。ひよりは身をぎゅっと縮めて必死の思いで人の合間を縫い、光来の教室へ向かった。目立つ光来はすぐ見つかる。ちょうど廊下を出たところだ。
「光ちゃんっ」
名を呼んで引き留めると、聞こえた光来が足を止める。廊下の真ん中で立ち話はさすがにできないので、制服を掴んで廊下の端に引き寄せた。
「なんだよ」
「これ、さちろ、くんに」
「あ?」
「お昼のお返し」
チョコバーを突き出してこそこそと言えば、光来はムッとした顔を見せる。
「自分で渡せよ」
「やだ!」
「うるっせ! 耳元でデケェ声出すな!」
うるさいと文句を付けられた自分の声よりも、もっと大きな声が間近で響く。キィンと鼓膜が痛んだが、光来の手を無理矢理取って、チョコバーを押し付け指を折らせた。
「いいから、おねが――」
「二人とも何してんの?」
「ひぃ!」
後ろから聞こえた声が、最近やたら耳に残るあの声だと判別がつくと、ひよりは情けない悲鳴を上げ、後ろを向いて誰だか確認することもなく、まっすぐに女子トイレへ駆け込んだ。
あれから女子トイレにしばらく籠り、聞き耳を立て、廊下の人気が少なくなったのを察してから教室に戻った。待っていてくれた友人に遅くなったことを詫び、やっとの思いで下校した。
幸郎から貰ったウエハースは、食べるかどうか迷い、ひとまず冷蔵庫に入れた。自分のだからと母に告げ、内扉の一番上の棚にしまったそれは、今食べる気にはなんとなくなれない。かといって家族にあげるのも、と思ったうえでの判断だった。
箱に記載された賞味期限はまだまだ先。だからとりあえず今食べなくてもいい、と理由を付け保留にするのが今は精いっぱいだ。
一夜明けた翌日は、昨日より元気に登校できた。今日は光来たちと昼休みに過ごさなくていい日なので気が楽だ。
一限目、二限目と授業を受け、三限目が始まる前に、友人と共に教科書と筆記具を持って廊下を歩いた。
移動教室は休み時間が移動でつぶれてしまうものの、普段と違う教室で受けるのは気分転換にもなってひよりは嫌いではない。
ただし、幸郎の存在を知った今となっては、彼と廊下ですれ違う可能性を考え、トイレに行くだけでもひどく緊張した。
息を詰めて、各教室の横を通り抜ける。とにかく気配を押し殺すことに努めた。
「ひよりちゃん」
体が跳ねる。抱えていたペンケースの中のペンたちが擦れ合い音を立てた。恐る恐る振り返ると、廊下に面した教室の窓から、大きな体がひょっこりとはみ出している。そこは光来の教室だ。なのに光来ではなく幸郎がひよりに声をかけた。
「昨日はチョコバーありがとう」
お礼を言われた。光来はちゃんと渡してくれたようだが、それよりも今はこの場をどう乗り切ればいいのかと頭を必死で働かせる。
「どっ、ど、ど、いたし、って」
『どういたしまして』という一文すらもまともに発せず、しかし言ったことには違いないので、ひよりは前を向き直り速足で廊下を進んだ。後ろから「ひよりちゃん待ってぇ」と友人に追いかけられ、角を曲がったところでようやく足を止めることができた。
ああ怖かった。ああ恐ろしかった。存在を目に入れるのも心臓が痛むのに、言葉まで交わしてしまった。
そしてふと気づく。幸郎はチョコバーの礼を述べたが、昨日の自分はどうだったろうか。受け取るだけ受け取って、ありがとうの一つも口にしなかった。
一応お返しをしたので、それでチャラにならないだろうか、でもお礼の言葉はやはり言っていない。そんなことをぐるぐると考えていたせいで、授業中に教師からぼうっとしていると注意が飛んできて、恥ずかしい思いをした。